キメラ5
探り合うことさえほとんどなく、食事を片付けた夫は、山のような本と音楽に溢れた自室に戻っていった。
夫は時折、少しおどけて、でも真面目に言う。
「僕はたぶん、自殺で死ぬから」。
出会った頃の夫は、歴史研究者の見習いみたいなことをしていて、冗談なのか本気なのか、「僕は砂漠で一人で死にたい」と言っていた。
砂漠で一人で死ぬことが、いつから自殺になってしまったのだろう。
どっちも同じようなものでは?と人は思うかもしれないけど、私にはわかる。
上手く説明できないけど、わかるのだ。
前者と後者は何かが決定的に違う。
その何かは、僭越ながら私なのでは、と思う。
私に出会う前の夫は、好きなことに殉教したかったのだ、きっと。
でも今は、夫は逃げたいのだ、何もかもから。
夫にとって、砂漠で一人で死ぬことは、決してネガティブな選択ではなかった。少なくとも本人にとっては。
それが私との生活を通して、「僕はたぶん、自殺で死ぬから」という、逃げ道のない日常に迷い込ませてしまったのだ。
ごく普通のポピュラーな物に囲まれて暮らしてきた私には、耽美も、暗黒も、退廃もわからない。
それが夫を救っていたことも、きっと、確かに、あったに違いない。
でも、本当の意味で、夫を深淵から救い出すことは、私にはできなかった。
いや…。
認めたくない。
受け入れたくない。
夫は選択したのだ。
私を抜きに生きることに。
私を抜きに死ぬことに。
すぐにではないかもしれない。
比喩かもしれない。
でも私が分かち合う人生は、もうそこにはない。
いつもどおり別々の寝室のベッドに潜り込んだ私は、電灯を消して、静かに泣いた。
夫は結婚式のとき、神前式やキリスト教式の誓いを頑なに断った。
信じてないものに誓えないから、と。
特にこだわりもなかった私は、夫らしいなと苦笑いしながら、人前式に同意した。
今も何に祈っていいのかわからない私は、夫が何に祈るのかもわからない。
願わくば、この奇妙な二人のキメラに、安寧の眠りを与えてくれるよう、たまたま窓から見えた月に祈った。