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ししおのつぼやき9 家族と友人だけの世界

だいぶ前に某大学で非常勤講師をして以後、高校生以下はもちろん大学生とも接する機会がほとんどないのだが、今も崩れることのない先入観がある。
いまどきの大多数の若者には、家族と、友人だけが世界のすべてであるということだ。
それは大学で写真を専攻した学生の写真(たいてい組写真)を見てもしばしば確認されることだ。
それが起こした大事件が、スシローぺろぺろ事件だ。SNSが家族と友人限定という大きな誤解。

新聞なんて読まないでネットの情報、それもLINEなどのまとめ記事と、SNSでの(しばしば転送・リツイート等の)、つまり知り合いか自分が好きな人・推しの人の情報だけ見ているからか。
世界の戦争とか紛争に無縁でいられるのはもちろん、就職とか労働条件とか貧困とかハラスメントとかジェンダーギャップとかの問題も感じてない恵まれた人ばかりが映画や写真を撮ったりしているからか。
政府とメディアと企業と教育が徹底して既製の制度と価値観を疑わずに国家と資本主義に献身するよう洗脳に成功したからか。
それなら、「つぼやき4(神話にならなかった国民運動)」で書いたように、市民運動(デモであれストライキであれ#metooであれ)が政治を変えることができるという実績が伝統になっていると思われる地域では、世界は家族と友達だけでなく、多様な権力・階層・職種・マイノリティ・異文化・異人種・信仰の交錯と闘争によって成り立っていると思われているのではないか。
そうではなかった。
「福岡インディペンデント映画祭2023」の韓国短編3本でもまた、世界は家族と友人だけで成立していたからだ。
韓国特集 - 福岡インディペンデント映画祭(FIDFF) - Fukuoka Independent Film Festival
「ソクテ川に白鳥はいるのか」は女子中学生の話だから、家族と友人以外の世界を生きることはもちろんそれを知ることさえむずかしいというのは理解できる。彼女たちも親の離婚や、孤独、(描かれることはないが、ひょっとして)虐待からも無縁ではないかもしれないし、それは個々の家族の成員の問題ではなく社会に根深い問題かもしれない。中学生の小児的なふるまいや発言のなかにも暴力性を感じさせた「ソクテ川に白鳥はいるのか」は最も印象的だった。
しかしこれを「川を渡る人々」と「どこにもない時間」とあわせて見て、さらにアフタートークを途中まで聴くと、やはり家族や友人の問題は韓国内の他の社会の現実問題に広がっているようには見えず、自閉=自足するなかで悩んでいるとしか感じられなかった。
彼女たちの悩みには男性も日本人ほか外国人観衆も共感するかもしれない。しかし私はいささかも共感できず退屈するばかりだった。特に「どこにもない時間」はわずか21分の短編なのに苦痛だった。
あと釜山の監督による作品らしいのに釜山という都市の特徴があまりわからないのも期待外れだった。それもこれらの作品が「家族と友人」を超えた地方都市レベルにさえ拡大していない証拠ではないのか。
だいたい、なぜ3篇ともすべて主人公は女性なのだろうか? 父親も若い男性も男子中学生も、家族にも友人にも何ら問題なく幸せに暮らしているのだろうか? いや彼らこそ社会と政治の問題に直面しているのだというと、じゃあ女性はそうなってないのかよ、という別の疑問に接続する。
……という疑問は今これを書いて初めて気づいたのだが、見ているときから気になったのでトークで質問しようとしたのは、2022年作品の「川を渡る人々」で老婦人も主人公も使っているカメラがフィルムカメラだということだ。2021年の「ソクテ川…」では中学生がスマホで写真を撮っているのだから、あわせてみると、「川を渡る人々」の意図的なフィルムカメラ時代の設定が不可解になる。
昔だったら私は挙手して質問しただろうけど、あわせて「三本ともつまらなかった、なんでこんな映画を選んできたのか」と不満もぶちまけそうになるから、こういう私の感じ方は一般観衆には理解されることがないのはもうわかっているし(日常のささやかな悩みのほうが世界と歴史の問題より大事)、友好的な場を台無しにする責任を引き受けるほどの使命感などとっくに失われているので、途中で退席したのだった。(それも昔だったら大きな足音を響かせただろうが、単にそろそろ出ただけ。)
昔ならトークのときに絶対訊いていただろうもうひとつの質問は、釜山の映画人が福岡の映画人と交流して、福岡に欠如しているもの、逆に釜山が福岡から学べるものがないかということだった。でもこれも、すでに福岡の文化振興にはもう何も期待しないので、どうでもいいことだった。

ちなみに夕方には家の近くだというだけの理由でこれを見に行ったのだが
『精霊流し』「ナイトフライトシアター」公式ホームページ (corich.jp)
上記のような疑問を投げかける以前のどうしようもない芝居だった。
もともと舞台上の芝居のわざとらしさ(当事者はそれを現場性というのだろうけど)が耐え難いのだが、ここまで手法においてもテーマにおいても古めかしくつまらないことを今やっていることにつまらない日曜日のとどめを刺されたのだった。
追記=テーマがひどいというのは女性観のことだ。最後のオチのessentialismには愕然としてしまう。数十年前ならともかく。
補足1
補足2