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ししおのつぼやき3 タイトル負け1(日本語篇)


  今書いている文章、といっても昔発表したものの書き直しだが、タイトルが決まらない。といってもあやふやなのはタイトルだけでないのだけど。いったん完成し発表したものをふくらませたのでどうしても論旨につじつまが合わず、決まらない原因(のひとつ)になっている。「ひとつ」なのは脳(連想のひらめき)の衰えが大きな原因と思われるからだ。
 だからといってつまらないタイトルはつけたくない。
 内容はつまらなくてもタイトルがおもしろければいいとさえ思う。
 つまらないタイトルとして想起するのは最近の芥川賞受賞作だ。これはひどい、と思ったのは『おいしいごはんが食べられますように』と『コンビニ人間』。「あ~あ」「なんだかなぁ」と嘆息するしかない。どうせ読まないからどうでもいい、という問題ではない。小説って文学でしょ? タイトルにも文学としてのオリジナリティと、心に響く言葉がいるんじゃないの? ベテラン編集者がもうちょっと若手にアドバイスしてやってもよくない? 賞とれなかったときでも売れないといけないんじゃないの? 
 上記をワースト2として、日本文学振興会のサイトで歴代受賞作を調べたら他にもダメなタイトルは少なくない。私が大学に入った前年(つまりまだ自分が小説家になれないかと夢見る少年だったころ)が『僕って何』で、こんなんで芥川賞なら自分でもちょろい、と思わせてくれた(作品は読んでないけど)。これで受賞するならタイトルなんてどうでもいいでしょ、と開き直っているのかどうか、作者も編集者も選考委員もみんなこれでいいといささかも問題視してないなら、もう私の知っている「文学」は死んでいることになる。まあもうどうでもいいけど。古典でもまだまだ読むものあるから。
 ほかの受賞作でも『ダイヤモンドダスト』とか『スティル・ライフ』とか『グランド・フィナーレ』とか『パーク・ライフ』とか『スクラップ・アンド・ビルド』とか英語から来たカタカナもすべて平凡きわまりなく、内容も底が浅そうに聞こえる。タイトルに英語を使うこと自体は悪くないけど、アイドルの曲タイトル(イメージです)と比べても負けているでしょう? 
 ではどんなのがいいのか。ダメな条件のほうが言いやすい。ひらがなの名詞と助詞がつながる、読みにくい(読みまちがえる)タイトル。「西口へのちか道です」……「へのちか道」って??(「重いコンダラ」みたいですね)。意味が重複するのもだめ。パロディならいいけど真似はだめ。同じ品詞が並置されると覚えにくいうえメリハリなくなるからだめ。柳瀬尚紀がジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の訳で極めたような(とても読み通せないけど)、音訓混在する漢字とひらがなと外国語起源のカタカナ、さらには「ふりがな」まで使える日本語の潜在力を開拓する意志も能力もない日常的なフレーズではだめ。長すぎるのもだめ。「協働と共生のネットワーク  インドネシア現代美術の民族誌」なんてどこに焦点があるかわからないうえに覚えられないので「ききねといげびみ」でようやく覚えた。
 そんなことを書いていたら、ちょうど、映画監督の中島貞夫の追悼記事(朝日新聞6月21日夕刊)で、中島が教え子の石井裕也の卒業制作の『剥き出しにっぽん』というタイトルがいいとほめたというのを読んだ。私が見た中島監督の作品は『にっぽん‘69セックス猟奇地帯』だけだが、そういえばタイトルは似ている。その記事で例に挙げられたほかのタイトルは『温泉こんにゃく芸者』『懲役太朗 まむしの兄弟』で、東映の岡田茂の命名が多かったという。ということは中島が自分でつけたのではないことになるが、エゲツない(実は意味不明の)タイトルはもちろん興行のためであっても、それがハマってしまう映画ばかり撮り続けるというのはやはり中島貞夫という監督の持ち味があったからだろう。映画産業が盛んな時代(あるいはその斜陽期も)もっと興行側も知恵をしぼって素敵なタイトルをつけたのだが(これについては稿を改めて)。
 展覧会企画の質もタイトルでかなり判断できる。たとえば成相肇の「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」「パロディ、二重の声 日本の1970年代前後左右」。言語感覚がすぐれているというのは、展覧会のねらいが明確であることと、大衆へのアピールを兼ね備えているということで、最近彼が出した「芸術のわるさ」という本もタイトルがすなわちキャチコピーで、何重にも重なる意味を伝える(まだ読んでなくてもわかる 読んでもわかったが。ただし「コピー、パロディ、キッチュ、悪」という並列は上記の基準でダメ)。もっとも、タイトルが平凡でもインパクトのある展覧会もあった。木下直之の「日本美術の19世紀」とか言葉としてはおもしろくもなんともないのだが、明治維新の断絶を無視し「美術」概念を問い直す挑戦があった。
 そういう挑戦的な展覧会はめっきり(死語)見なくなった。むしろ、手抜きというレベルを超えた、人気作家ならテーマなしでも客は入るという安易なのがM美術館の「STARS」(嫌いな作家がひとりでも入っていると見ないけど)。あといまどきの若者学芸員とか洋行帰りの自称キュレーターがつけるタイトルの、親しみやすさか、その逆に、たいしたことのない教養をひけらかすような、奇抜なタイトルも耐え難い。ふん、どうせもう62歳のジジイですからね。だいたい、キュレーターって、そんなにエラいの?
 今書いているのは結局無難なところに落ち着いた。何という文章でどこに発表されるかはいずれわかる。ということでいきなり終わる。
(6月24日)