書評六尺 〜陸  慟哭

この歳になってもゲームは結構やっている。
かなり前に発売され、以来ナンバリングタイトルが8まで出ているやつの最新作をやっているのだが、十二章もあるチャプターに昭和、平成、令和の歌謡曲のタイトルが振られている。
その第何章かに『慟哭』(工藤静香だっけ)というのがある。内容も曲調もこのタイトルを振った意味がよく解らんのだが、後にも先にも一回だけ慟哭している人間を見た。
前回では母方の祖父の楽しい酒呑み話だったが、今回は父方の祖母の話である。

祖母は自宅で助産院を営む今でいう助産師だった。薩摩(知覧)の出で、横浜に長年暮らしていてもこのお国訛りが抜けない人で、自他共に厳しい人であった。
僕自身も母方の親類には明らかにない『怜悧』という言葉がビタハマりな婆ちゃんで、自分の下の名前も気に入らなかったのか、はたまた仕事上支障があったのかは定かではないが、裁判所に改名届を出し、明治生まれの女性には珍しいモダンな名前だった。
戦中莫大な赤ん坊を自宅に設けた分娩室で取り上げていたそうで、そんな中で我が親父は勝手に動き回らない様に柱に帯で半固定されて育ったそうな。

そんな事もあってか、親父は実家が大嫌いな人で、自分の両親とも、普通の親子間での会話はほぼしていなかった記憶がある。
正月でも一応新年の挨拶で出向くのだが、ものの1時間もいない内に『大森(お袋の実家の所在地)行くぞ』と言い捨てて立ち去るといった感じだった。孫である私には顔見るごとに(知覧の人だからか)『(僕の名)さん(薩摩の女の人は男の孫には敬語使うのかな)は防衛大学に行きなさいよう。勉強できて、お給料もらえて、お国のためになるんだからねぇ』的な事を繰り返し言うもんで、私ももういい加減にしてくんねえかなぁとしか当時は思っていなかった。

一方で親側としても、長男としてそれなりに育ててきた息子に勝手に大学を中退され(私も母もこの事親父の葬儀で知った)、親のコネも使わずに勝手に公務員になってしまった息子に長年忸怩たる思いがあったのだろう。

そんな重苦しい年月を経た後に我が親父が42歳で突然他界した。
こちらもあまりに突然だったので、親父の死というものを噛み締める時間もないまま葬儀は粛々と進行し、最後のお別れという時に、葬儀中もスーパークールに見えたばあちゃんが突然棺に取り付き、親父の名を何回も叫んで、腹の底から湧き上がる様な声(唸りに近いか)で泣き崩れたのである。いい加減周りに促されて離れたもののこれ以降堰を切ったように泣いてばかりいるばあちゃんであった。
このお陰でおふくろも私も最後のお別れが結果できなかったのだが、当時中学一年だった私は今頃なんだよ位の思いしか浮かばなかった。しかし後に慟哭の意味を知り、まさにこの瞬間がそうだったのかと納得がいった。やはり人の親であったのだ。(なんともな言い様だが)

その後は足を運ばなかった我が家にお盆の時期には必ず来て、その度に親父に生き写し(らしい)私を見て親父の名を呼んで泣かれたもんだが、もうその時にはまぁいいか位の気持ちで黙って手を取っていたなぁ。
その婆ちゃんもそれから2年後に他界してしまったのだが、今となっては親ってこういうもんなんだなぁとしみじみ思うのである。

ゲームの話かと思えば、そっちの話に行くんですね的な流れになったが、ゲームから出てきたワードに素直に書き殴ってみた。

こういう事って、その時わからなくても後でジワるもんですな。その時に色々考えてしまうと、自分がどうにも辛くなるのをうまく和らげている心の強制システムダウンなのかも。
来年の旅はばあちゃんの育った街を訪ねてみようかな。

ゲームに気わる話はどっかで気が向いたら書き殴りまーす。終わり

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