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『Wish』評 ~クラシックの論理~

 12月15日公開のディズニー映画『ウィッシュ』。巷では、100周年記念作品ということで広く宣伝がなされている。公開から半月過ぎてはしまったが、私もつい先日鑑賞することができた。普段は映画評をやるタイプではないが、今回の『ウィッシュ』は“ディズニー”そのものの話をするのに相当よい題材だと思ったので、ひとつ書いてみようと考えた。

所謂「ネタバレあらすじ」の如く話の詳細に言及することはしないので、まだ観ていない/劇場で観る予定がない人が読んでも大丈夫だと思う。もちろん、観た人の方がスッと入ってくるような気はするが。例えるならば、『Wish』を観た後で年下の学生(高校生~大学1年)向けに授業するならこんな感じだろうな、という話にすることを目指している。

●映画の感想


 本編の前の、ディズニーキャラクターをたどる短編(Once upon a studio)。あるいは、エンドロールに流れる歴代作品の登場人物。少しだけ入ってきていた前情報通り、今作は構造として多分にディズニーの過去作たちを意識した作品だった。
 作中にもそれは表れていたといってよいだろう。わかりやすい例でいうと、魔法の粉をふりまく場面は『ピーターパン』から。王様の会話パートは『白雪姫』の鏡から。少し踏み込むと、挿入歌「誰もがスター!」は『ライオン・キング』からの感が強い。「あなたはだあれ」とアーシャが問いかけられるところに、シンバがムファサの霊に問われる場面(「Remember who you are」と聞かれている)と同じ要素があると思う。
※ちなみに『ライオン・キング』の着想元にはシェイクスピアの『ハムレット』があるとされるが、そちらでは幽霊が「Remember me」とすがりつく場面がある。ディズニーで「Remember me」といえばピクサーのあの作品だが、根底のテーマを古典から引っ張ってきている例は意外に多い。
 とはいえ、従来の繫ぎ合わせに終始しているかといえばそうではない。「星に願いをかける」という『ピノキオ』や『ピーターパン』でずっと使われてきた枠組みを、現代風にアレンジしているところもある。『白雪姫』の時代だったら「いつか王子様が」と言っているところを、今作では自分自身が願いを持つことに重きを置いている。星は願いを叶える手伝いをしてくれるだけであって、結局は自分が立ち向かうしかないのだ。
 更に登場人物の属性に関しても、過剰にポリティカル・コレクトネスを意識することはないように見えた(正直、ストーリー展開よりも多様性を重んじた最近のディズニーは好きではなかった)。アーシャはそうじゃないか、という人もいるかもしれないけど、そのアーシャにしても属性を強調して登場しているわけではない。昨今の実写リメイクほど急進的でなく、初代『アナと雪の女王』くらいのバランス感覚でちょうどよかったと感じた。

●ディズニー流の“古典”主義


 感想のところで「過去作に似た表現の多さ」を述べたが、それではなぜ「どこかで見た」ような場面が多く見つかるのだろうか。それは、ディズニーが彼らなりのやり方で古典を脈々と受け継いでいるからだと考えている。
 知っている方も多いだろうが、多くのディズニー映画には原作文学が存在する。『白雪姫』ならグリム童話、『ピノキオ』ならカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』、『美女と野獣』ならボーモン夫人の同名作品といった具合だ。ディズニーの功績を評価する際に「こうした原作の物語が広まることに貢献した」という側面を取り上げることは、彼らを語る文献では常套手段である。
 しかし、ディズニーは原作文学をそのまま映画化しているわけではない。わかりやすい作品として、『美女と野獣』を例に挙げよう。ボーモン夫人の原作時点では、この話は「野獣の心の美しさに気づけない」、即ちベル側の問題として描かれていた。ところが女性解放論の風潮を汲み取ったディズニーは、この話を「心が汚れているから野獣にされた」野獣側の問題に作り替えた。主張を明確にするために、ガストンという「ハンサムだが心はベルに似合わない」人物を登場させて、野獣との対比の中で物語を進めていった。このように、ディズニーは時代を作風に反映して作品を再構築しているというのが妥当であろう。同じ題材・同じディズニーの制作でも時代が進めば細部は異なり、例えば実写版『美女と野獣』ではル・フウ(ガストンの子分格)にLGBTの役割が与えられている。
 そうして形を変えながらも、世代を超えて愛されているというのがディズニーの特徴的な点だと思う。親が子どもに作品を見せて、その子もまた孫に見せるという流れが、まるで昔話のように確立されている。今や映画だけでなく、テーマパークや舞台演劇をはじめとした多様な手段を通じて、定番の物語が何度も語られる。古典というのは読まれ続けるからこそ古典に“なる”ものだと考えているが、ディズニーの場合はこうした強力な反復演習によって自らを古典たらしめているところがある。みんなが知っているからこそ、ネタが組み込まれていることに気づきやすいのだと思う。
 ただし、「受け継がれる」のに「中身が少しずつ変わっている」ことについては、若干の混乱を生んでしまう部分もある。個々の作品を見たときに、「ある世代にはしっくりくるけれど、次の世代には腑に落ちない」という状況が発生する場合があるということだ。感想のところで「最近のディズニーは好きではなかった」と書いたのはまさにこのことだ。僕は00~10年代前半の作品で育ってきているから、それ以後の「多様性を押し出す」という作風の変化に違和感をおぼえたというわけだ。10後半~20年代前半の作品で育ってきた世代にとっては、むしろ多様性が前面に出ているのが当たり前なのかもしれない。

●「画一化」という批判

 一方で、ディズニー作品には「それぞれに個性があった児童文学の原作を、ディズニーブランドの名の下に画一化してしまった」という批判がつきものである。これ自体は確かなことだろう。いま僕たちが「ピーターパン」や「くまのプーさん」をイメージするとき、原作のそれより先にディズニー映画の絵が浮かぶはずだ。
 しかし、僕たちには(それこそ『Wish』の世界の住人たちと違い)めいめいに原作にアクセスする自由は与えられている。マグニフィコ王が言うように考えない方が楽かもしれないが、バリーの『ピーターパン』もミルンの『プーさん』も読みたければ読める。デカルトやニーチェを手に取る大学生(高校生)の感覚で、こうした原作に手を出してみるのも面白いかもしれない。
 構造としては、歴史文学と歴史との関係に近いような気がする。大河ドラマと史実とは往々にして異なる場合が多いけれど、私たちにはめいめいに史料にアクセスする自由が与えられている。(「読む人めったにいないでしょ」という意見は真っ当で、それは原作文学も同じことだと思う)一つ違いがあるとすれば、ディズニー映画を「私にとってのピーターパン」と言われても問題はないが、大河ドラマを「私にとっての坂本龍馬」と言われても困ることくらいか。いやそれも、「私にとっての」の範疇ならよいのではないか。
 
 ロサスの人々の願いが返ってきたからといって、それらがみんな叶ったかといえばそうではない。けれども、願いが手元にあるからこそ、私たちの側にそれを切り拓く自由が存在しているはずだ。
 

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