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毒親育ちが救われるタイミング


「明日私は誰かのカノジョ」
通称「アスカノ」が最終章を迎えたので
1話から読み返していました。

この物語の一つのテーマである
「毒親」に関しては
この数年でよく言われるようになりました。

この第一章の二人が
別れてしまったように
恋愛において
家庭環境の差は
無視できない問題だと感じています。

正直接客業も長くなると
少し話しただけで
目の前の人が
割と普通の家庭で育ったのか
どちらかと問題のある家庭で育ったのかは
なんとなくわかるようになってきました。

私は虐待とかなどは
受けていないものの
普通の家庭かと言われると
そうでもなかったでしょう。


だからこそ
無意識に私は異性を選ぶ時に
家庭環境が壮絶な人を
選んでいたような気がします。

だいたい私の選ぶ人は
なぜだか
母親が他界している人が多くいました。

そうじゃなくとも
家族仲がいい人とは
なんだか深くは
分かり合えないような気がして
そういう人とは
無意識に距離を置いていました。

「母の日、父の日なんだから
 親御さんに何か
 送ってあげなさいよ」

的ないらんことを言ってくるからです。

毒親育ちの方々は
そんなことは絶対に言いません。

こっちにもまず前提として
過去を受け入れるという
ハードルがあり
それすらも「その経験があったからこそ」
と思えた時に
自分のタイミングで感謝を伝えるから
ほっといてくれ
と思うのです。

今となっては家族に思う
様々なことは薄れてきましたが
それは親元を離れた後
家族が私を基本的には放っておいてくれた
からだと感謝しています。

人と人との関係性は
同じ時間を共有することで
団結力や共通認識が生まれ
単純接触効果もあって
良くなっていくものですが

私と家族は
そういう関係にないことを
みんなわかってくれていたのです。

そう思えたのは
私がもう親元を離れて
20年近くの月日が経つからで

この物語の主人公たちのような
20歳前後ならば
私もその家庭環境の差を大きく感じ
主人公の雪のように
幸せな家庭環境出身の人の言動に
いちいち落ち込んで卑屈になるような
考え方に陥っていたでしょう。

つまり家庭環境が複雑だった人たちも
20代くらいだと割と哀愁漂っていますが
30代半ばくらいになると
その哀愁も徐々に消えて
笑い話にするようにすら
なってくるのです。

そういった意味で私は
「毒親育ちの天才」のイメージがある
成田悠輔さん
惹かれたのでしょう。

成田先生がおそらく
若い頃に漂わせていた哀愁は
今となっては「色気」に変化しています。

私はこの境地になって
毒親育ちは
そうじゃない人とも
普通に恋愛して
幸せになれると感じています。

最終章の「アスカノ」では
雪ちゃんにそういう変化が
訪れるのでしょうか。

どんな毒親育ちだったとしても
そんな境遇すら感謝できる瞬間が
必ず訪れると信じたいと思っています。

その気持ちこそが当人を救うものだと
思っているからです。

ただそのタイミングは
当人に決めさせてください。

周りが急かせば急かすほど
そのタイミングは遠ざかるのです。


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