見出し画像

相対的価値と常識を疑う必要性

最近前からの行きつけのバーの店主と
岡本太郎について語ることがありました。

この店主は割と旧知な仲で
こういった精神性だったり根源的な話ができる
数少ない私の知り合いの一人です。

普段本を読むことのない彼に
私が岡本太郎の「心の中に毒を持て」
を勧めたら
(正確に言えば中田敦彦さんの解説動画↓)

かなり気に入ってくださって
次に会う時のその語彙にすでに
岡本太郎が宿っていました。

勧めた私もその手前
またこの本と動画を見返して
復習していたのですが

その中でよく出て来る「相対的価値」と
いうキーワードが私の中に残りました。

「相対的価値」という言葉は
正直言ってよほど学のある人でない限り
普段の会話の中で出て来ることも
ないですし

「相対的」「絶対的」っていう
言い回しすらもかなりの人が
「えっと、どっちがどっちだったかな?」
となるようなワードだと思います。

検索すると

相対価値とは、競合する人、企業等と比較することや、優劣を競うことによって生じる価値だと捉えます。

Googleより

とあります。

これはまさに今まで営業の数字の世界から
転職して数字の指標が全てではない世界に
移行した私にとっても
なかなかタイムリーな話でした。

今まで自分の中での不調を抱えても
数字という相対的な価値に支えられてきた
私にとって

一つの支えがなくなった環境で
どれだけ「仕事」というものの
根源的な意味を追求できるか
どれだけ自分に自信を持てるかを
問われているような気がしました。

そしてそれは
自分ではないその他大勢が感じる価値や常識を
どれだけ疑えるかという課題でもあります。

前回こちらの投稿で
病弱な人やHSPの人は
危機を察知するためのメッセンジャーとして
一定数必ず存在する必要な存在だと触れました。

つまり、こういった「少数派」が
いないと凝り固まった価値を変えることが出来ず
環境の変化に適応出来ず
滅びてしまうのです。

まさに今この時代こそその分岐点を
迎えているような気がします。

ちなみによく物が普及するまでの間
こういった順序で普及するという
下記の「キャズム理論」の図が
ありますが

こういった図で見ても
アーリーアダプター層より前の
初期市場というのは
全体で見ると少数派となります。

この図で分かる通り
少数派でないと
アーリーアダプター層にはなれないのです

常識を疑うことの大事さが
だんだんと伝わってきましたでしょうか。

皆さんに常識を疑うための
練習として一つの具体例を出します。

SNSが普及してきた中で
いろんな人が発信し飛び交う言葉の
そのほとんどが割と使い古した言葉ばかりです。

だからいわゆる「バズる」言葉というのは
そうじゃないので目立ってくるのです。

使い古されすぎて
もはやその言葉はあなたのオリジナルではなく
ただの慣用句なのではないか
という言葉は
そのバズってる中の批判のコメント欄
にも見られます。

もっといい例があるかもしれませんが
私がその一つを挙げます。

「病気(障がい)なんだからいじっちゃダメだよ」

はい、よく聞く言葉ですね。
そして一見すると正義の言葉です。
こういった言葉こそ
相対的価値を得た言葉といえるのでは
ないでしょうか。

ですが、この言葉をこういう方面で
疑ってみます。

「病気(障がい)と認定されているから
 いじっちゃいけないの?
 じゃあまだ病気と認定されていないけど
 未来で病気と認定される
 名もない病気で苦しんでいる人はいいの?」

近年発達障がいやLGBTなどの
認知度が上がるとともに
これらをいじっていけない
風潮が「多様性」とともに
出てきました。

私から言えばこれすらも一種の
「相対的価値」であり
ただの流行り廃りなのです。

少し時代を遡ると
こういった人々は
心無い言葉をかけられてきました。

ただそれらの全てが罰すべき対象だった
かというとそれも違います。

それらの病気や障がいを逆手に取り
注目を浴びて成功を手にした人たちもいます。

また、とある重病を抱えた友人が言った
言葉で心に残っていることがあります。

「あの子が私の病気をいじってくれたから
 すごく軽くなった。  
 みんな腫れ物みたいに深刻に扱うから
 その度に「私は重い病気なんだ」と
 思い知らされたから。」と。

もちろんこれは二人の間で
信頼関係が築けているからに他なりません。

つまり病気(障がい)をいじること
そのものが悪なのではなく
信頼関係がない人たち同士で
距離感の測れない「いじり」が
発生して傷つけることが悪なのだと
私は思います。

つまり相対的価値に守られた
綺麗で無難な言葉でも
その言葉の本質をきちんと見極めて
使い分けることが本当は必要なのです。

あなたもこうやって
周りにある「相対的価値」を
疑って見てみる、考えてみる時間を
持ってみるのはいかがでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?