完璧な隣人はいない

最近はこの言葉を念仏ように繰り返し心の中で唱えている。
家族であっても、友人であっても、職場の人間であっても、恋人であっても、私の理想の隣人たりえる人など、他人にとっての私がそうでないのと同じように、この世界のどこを探しても存在しないのだ。

以前職場で体験したこと。
こんな人格者が居たとは、人事は大当たりを引いたものだなと感心した中途採用の上司は、誰とでもコミュニケーションが取れて、年下にも気を使うことができ、知識が豊富で、面倒な仕事を率先して引き受けてくれるような人だったが、半年もすると粗野な言葉遣いが目立ち、気の置けない仲である証として暴言が許されると思っている人で、他人の容姿や育ちをこき下ろす本性だった。

常に控えめで先輩を立て、覚えも早く仕事を頼んだら快く引き受けてくれていた愛想のいい新人は、自分の後輩ができたら自分の苦労を倍にして後輩に押し付けていじめっ子気質を全開にし、そのことを指摘されたらストレスでつらいのは自分の方だと被害者を名乗り数々の後輩を退職に追い込む本性を持っていた。

最初はみんないい人だと思っていた。当然だ。みんな店構えは立派に見えるように努力する。だが、ひとたび暖簾をくぐって中に入れば知りたくなかった人間性が当然のようにそこにある。
外観だけを見ていたかったなぁと嘆きたくなるほどに。

職場はストレスフルだ。
ただし、辞めたところで転職先にもどうせ似たような奴がいる。
どこへ行ったって、完璧な同僚、完璧な上司や後輩、悪化することのない人間関係なんて永遠に見つからない。乾季と雨季があるように、穏やかな時期もあれば苛烈に揉める時期もある。あっちの地獄にするか、こっちの地獄にするかの違い。

他人を変えることはできない。
何かを変えたいなら悔しいけど自分が変わるしかない。

これは私が子供の頃母に言われたことだ。
私も経験上その通りだと思うし、持論ではあるが人間二十歳を超えたら性格を変えることはできないと思う。

生涯の友と思っていた、何でも話せる気の合う幼馴染は、結婚を機に私ではなく配偶者をその位置に置き疎遠になった。
誰にでも好かれる人気者だった同級生は、10年ぶりに会うとまるで時が止まったかのように価値観のアップデートがされていない前時代の化石となっていた。
同じ推しを応援していた仲間は、他の人の推しを悪く言う人だった。
常識的で優しかった友人は、不倫に走った。
完璧だと思っていた私の大好きな隣人達は、完璧ではなかった。

当然、私もそういう「落胆」を他人に毎日与えているのだろう。
だからと言ってそのたびに人を嫌いになっていては自分自身にメリットがないのではないか?ということに気づいた。
この世の中に永遠に好きでいられる人など存在しないのだから、気が合う時期は寄り添い、気が合わない時はそっと離れればよい。
プロがプロデュースしているはずの「推し」ですらたまに無理になる時があるのだから、素人がやっている「隣人」なんてそこそこの頻度で無理になって当然だろう。
ちょっと無理だな~と思う一面がある人でも、自分にとって都合のいい部分があればまぁ私の物語の登場人物一覧表に小さく存在することを許してやってもいい。たとえ辛い出来事があって疎遠になった人がいても、過去編の登場人物とすればよい。そんな心持ちでいようと思う。

あんなに大好きで大切だった人も、時間がたてばわりとどうでもいい人になるものだ。そこに落胆すべきではない。
この世界の大半は「たまに好きだけど基本どうでもいい人達」で構成されている。

完璧ではない隣人達を、気が向いた時だけ愛せばよいのだ。

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