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執着していたものが剥がれ始めた音#73

現在21時52分。とあるワークショップに参加し終え、毎度ではあるのだがエモい感じに浸っている。この美しいものを見たくて生きていくんだと思ってもいいくらいの時間であった。

さて、そんな高揚感とやさしい安心感の中、今日のことを思い出す。

今日は、ふとした瞬間に執着していたものがどうでもよくなったなと思う瞬間があった。

つい昨日の日記には次のようなことを書いていたはずなのだが。

愛されたいなら愛しましょう。
そんな言葉で奮い立たせているかのような。
これは執着なのだろうか。

何が起こったかのだろうか。

おそらく次の一文がきっかけだったように思う。

一緒に過ごした時間は現実で、真実で、素晴らしい時間だった。そしてその時間は終わった。終わったからといってその瞬間の関係性の深い価値はなくならないのである。(p.369)

執着していたのは、終わらせることが怖かったからなのだと思う。それはもうとっくに終わったことであるのに、現実を受け入れることを拒否していたのだ。

よく執着は手放した方がいいと言われるが、執着は手放すものではなく気づいたら手放されているものではないかと思えてきた。

その状態に至るまではきっとシンプルなのだろう。終わったことをただ受け入れるだけ。事実を受け入れるだけだ。

もちろん、これが難しいから人は悩む。僕も悩んだ。

じゃあどうすればよいのか。ステップは2つあったように思う。

まず、思いっきり執着すること。

え?と思うかもしれない。

でも本当に手放したいと思うなら、カッコつけている場合なんかじゃない。とにかく過去をひきづり、迷惑にならない範囲で周りに泣きつき、執着することそのものに苦しんでみる。

人間は楽したい生き物なので、いつか苦しみ続けることに疲れる時がくる。それは1週間かもしれない、3ヶ月かもしれない、1年かもしれない。

そうやって自分の中で落ち着いてきたら(この辺りはまだまだ言語化のしがいがある)次のステップだ。

次のステップは、今あるもの、これまで起こってきたものに目を向けてみることだ。正確には向けようとすることかもしれない。

それもまたなかなかに苦しいものでもあろう。

でも苦しみながらも、楽しかったりワクワクしたりした瞬間がきっとあるはずなのだ。あったはずなのだ。その自分を少し感じてみる。

すると、新しい未来が自分の中に立ち現れてくる。それは、待ってましたと言わんばかりのものが。

2021.12.17.22:22

ここからで、というところで終わってるのが自分らしい。

2021.12.18.22:59

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