どんなに忙しくても語ることを止めたくはない#85
「ナラティヴnarrative」という言葉が注目されている。「物語」あるいは「語り」を意味するこの言葉は、人文科学、社会科学、そして、臨床化学などのさまざまな領域で最も重要なキーワードのひとつとなっている。(『物語としてのケア——ナラティヴ・アプローチの世界へ』まえがきより)
1年前から変わったものもあれば、相変わらず変わっていないものもある。
この1年で認知と思考は大きく変わった。何でもネガティヴに捉える傾向からポジティヴもネガティヴも同等のものと捉えられるようになり、いつも自分を責めるばかりであった思考は、自分を讃えたり健全に批判できたりするようになった。
一方で変わっていないのは、自分の学びに対する態度だ。
1年経っても相変わらず、学びの場に参加し続けている。実践してこそなのだが、学んで満足している節がある。
改めて振り返ってみると、現在大きく3つの学び(探究)の場に参加している。無料のものも入れれば、6つだ。
その時々において、とても勉強になるし、学びにもなる。(勉強と学びの違いについてはまた今度考えたい。)
ただ、そもそもなぜ勉強するのか。なぜ学ぶのか。こういった大切なところが抜け落ちてはいないだろうか。
このようなことを考える時間をとるべきだと思いつつもとっていない現状を改めて考えてみると、現状に満足しているからなのだろう。
満足。言い換えれば今とても幸せなのだ。
これ以上を望んでいないらしい。
もしかすると、この奥には「学んでいればいつか変われる」という信念があるのかもしれない。
そんな自分に喝を入れたい。確かにその信念は間違ってはいないかもしれない。けれども、大事な前提を忘れている。それは、時間が有限であるということだ。もっと大袈裟にいえば、命には限りがあり、たとえ命を賭けたとしても成し遂げられないことはたくさんある。
そして、問い続けたい。
自分の命を何に使っていくのか。何をつくっていくのか。そして、何をみたいのか。
もう十分だ。これまでの人生で一生分の妥協はしてきた。だから、これからはもっと欲張りたい。
では、何から始めるのか。それが語ることだと思う。
最初に挙げた「物語としてのケア」では次のようなことが書かれている。
「物語」は「語り」から生まれ、「語り」は物語から生まれる。
前半で書いた学びに対する態度の話は、自分の学びの捉え方を「語る」ことによって顕在化させた。つまり、自分の学び方の物語化をしたといえよう(「物語」は「語り」から生まれる)。この物語にタイトルをつけるとするなら「学びという頂」だろうか。
そして、これからもっと欲張りたいという物語に、この「学びという頂」物語は相性が悪い。なぜなら、欲張りたいのは、学ぶことそれ自体ではなく、学びを活かすことだからだ。学ぶことで頂に立ったと思われては困る。むしろ、そこからがスタートであるはずだ。
ただ、こうやって語っているということは、すでに新たな物語が始まっていることでもある(「語り」は「物語」から生まれる」)。
それは、どんな「物語」なのだろうか。そして、「語る」ことによってどんな「物語」を生み出していきたいと思うのか。
学びの先にある物語を語っていきたい。
大切な人や自分とともにいるために。
2022.1.30.17:01
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