回避は自分を守るが、救いはしない#83
一昨日の日記では次のようなことを書いた。
今回避しているものに自覚的になりたい。選択というのは、結局のところ何かを選択しないことでもある。どんな選択をしようと回避は起こるのだ。
この日記を書いているときは、回避というものをどこか悪者のように捉えていたところがある。
しかし、改めて考えてみると回避によって守られている自分が存在することに気がつく。守るというのは悪者とはいえない雰囲気を感じる。
一昨日願った、”今回避しているものに自覚的になりたい”というのは、すなわち、今自分が守っている対象としての自分に気づいてあげることでもあるのではないだろうか。そう考えると回避も悪くない。
回避をするということは、自分の一部を見ないようにしていることであると捉えている。その部分は自分にとって都合が悪い。例えば、ある人と付き合えないだろうと予測する自分は、その人のことが狂おしいほどに好きで付き合いたいと思っている自分にとって都合が悪い。だから、その不都合な予測部分は、好きを増長させることによって隠すのである。
こう書いてみると、やっぱり回避はよくないものではないなと思う。
「守る」という視点で回避を考えてみよう。
何から守っているかというとおそらく不快な感情だろう。自分にとって居心地が悪い状態にならないようにしてくれているのである。そう思えば、これもご自愛のひとつと呼べるかもしれない。
ただ、このご自愛は対症療法的であり、根本解決にはならない。したがって、繰り返される。その繰り返しが生む不純物がもたらすエネルギーロスは、無意識のうちに自分の心身を蝕む。
つまり、守るという観点からみた回避は姑息な対症療法であるといえよう。
だから、回避は自分を守るが、救いはしないと思うに至ったのだ。
考えてみて思うが、結局どうしていくかに関する結論は変わらない。
回避している自分と回避をすることによって守られている自分にまずは気づくことだ。
そのために必要なことはやはりボディ領域への探究だろうか。
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