見出し画像

希望をみて震えたカフェからの帰り道#3

昨日の日記で「自分と深くつながるために」ということについて書いていた。それに関連して、ここ数日でやっと読めた「『深い関係性リレイショナル・デプス』がなぜ人を癒すのか パーソン・センタード・セラピーの力」についての感想を少し書いておきたい。

自分はセラピストでなければカウンセラーでもない。ただ、カウンセリング領域(この言い方があっているのか分からないが)に興味があるだけだ。そのため、パーソンセンタードセラピーがなんであるかも分からなかった。来談者中心療法と一緒であると思っていた。しかし、どうやら違うらしい。(もしかしたら一緒なのか?)

その程度の知識なので、なかなか読み進めるのが大変だった。理解が追いつかない。でも、何とか読み進め8章の「セラピストの成長課題」を読んでいるときに泣きそうになった。本音を言えば泣きたかったのだが、カフェだったためにグッと堪えた。

それは以下を読んだ時の出来事であった。

自分は何者なのか、防御に身を包んだ偽りの自画像を剥ぎ取るとどういう自分がいるのか、を直視せねばと根源の自分に立ち向かおうとしても、一方で自分は無能な耐え難い人間かも、あるいは悪魔のような恐ろしい人間かも、という恐怖を抱いているからである。自分を直視することは普通、現実の問題に直面するよりも恐ろしいことであるが、成長過程のカウンセラーやセラピストにとって、この課題は乗り越えねばならない巨大な壁である。(中略)そして、自分が思っていたほどに防御する必要はないと分かると、それまでの恐怖は縮小し、その結果、自分自身との出会いにも人との出会いにも、今までよりもオープンになれる。(p.290) ※太字は自分が響いたところです。

やりたくないこと恐れていること(=自分と向き合う)をやろうとしている自分が不思議でならなかったが、そうしたい自分がいることにも気づいていた。本書では、自分の中にいる自分を「部分part」と述べており、その考え方も自分の救いになったように思う。

話があっちこっちとっ散らかっているような気がするが、ここを読んで希望を見たような気がする。報われた気がしたのだ。これまでの自分のやってきたことが。

教師としても、コーチとしてもとても遠回りをしているかもしれない。カウンセリング領域の本を読むなら、教材研究や教育に関する本、自分のコーチングを磨くことに時間を費やしたほうがいいのではないか。そんな声にも気づいている。

だけど、人として生きるという意味ではもっとも近道だと感じている。(もちろん正当化かもしれない、という声の存在は認めている。)

人として生きるとは何だろうか。それは、自分の人生を本気で生きようとしていることなのかもしれない。今までは、誰かの人生を生きていたように思う。そうだ、どこか自分の人生の責任を放棄し、今ある快楽だけを求めていたように思う。だから、過去も振り返ったりしないし、未来を考えたりもしない。かといって、今ここに生きてきたわけでもない。ただ、その時が楽しく楽になる選択をし続けるだけ。


そんな生き方を9月にあった誕生日を節目に、変えようと思った。いろんなことが要因としてあるけど、まあ大きく取り上げるとするならば、この1年間で強烈な人との体験があったからだ。本当に多くのものをプレゼントしてくれたと思う。そのプレゼントをちゃんと受け取りたい。いったんは傷つくことになったとしてもだ。それに、もらったものは傷つくものばかりでもない。

そういえば、カフェからの帰り道にYOASOBIのハルカという曲がたまたま流れていた。この曲を聴くのは初めてだった。普段はあまり歌詞が気にならないのだが、ふと気になったので歌詞を見てみた。

ふりかえればいくつもの
思い出がよみがえってくる
だれにも見えないところで
流した涙もほら
今の君につながっている
たくさんの愛につながっている
こみ上げてくる
想いはただ
ありがとう

シンクロかな?


ありがとう。感謝しかないです。出会いに、存在に、言葉に。

2021.10.5 21:57

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?