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表と裏のナラティヴ#4

今日はこちらの本を読みながら感じたことを書こう。リフレクションジャーナルと称しながら、半分くらい読書感想文っぽくなっている最近。

ナラティブに関する書籍を読んでから、「今のセルフ・ナラティブはどんなものだろうか?」という問いをふとした時に考える。すると出てくる二つの信念。

自分は幸せになってならない。
自分は人を傷つける。

意識下では幸せになりたいと思っているのだが、そのもっと奥底ではそんなナラティブで生きているものだから、結果的には幸せから遠ざかる行動や、あるいはせっかくある幸せを拒絶することになる。

本書では、自己探求・成長の実践編として3段階上げており、その第I段階「自分の人生の“主人公”となる」はまさに今の自分の課題であるといった感じだ。

周りにいるコーチや教師、大人たちはとっくの昔にこの段階を終えていて、対人支援や社会貢献に勤しんでいるように感じる。そう思うと少し焦りを覚えるが、焦ったところで状況が変わるわけでもない。

自分の今を知り、実現したい未来を描き、行動していくという華やかで地道なプロセスを淡々と駆け上がっていくしかないのだろう。

話を本に戻す。その第I段階の一部に「『トラウマという物語』から解放」という箇所がある。トラウマという過去の物語(解釈の物語)から解放されないことには、幸福になれないらしい。そりゃそうだ、という感じ。

自分の“トラウマの物語”を発見し、それと向き合うことは、過去へのとらわれから抜け出すために必要なステップです。しかし、その体験をしっかりやり終えたら、いつまでもその物語にしがみつくのではなく、その物語の“物語性”を自覚し、それから距離を取ることが必要です。つまり、その物語はあくまで“物語”であり、自分が自分を納得させるために必要とした“主観的な解釈ないし意味づけ”であり、もっとハッキリ言えば、ひとつの“幻想”に過ぎない、ということをしっかりと認識すること。そして、その物語を手放し、自分から離れること。(p.141)※太字は自分に響いた箇所

ただ、ここを読んで、トラウマからの解放をしなければと感じたわけではない。それに何かトラウマを抱えているわけでもない。何不自由なく生活できている。

今の自分にはどうしても手放せないナラティブがひとつあり、それがガツンと頭の中に浮かんできたのだった。

それが片思いの話だ。

何度もフラれておきながら、未だに気持ちが冷めない。もちろんこの気持ちを無くそうとしたいわけではない。ただ、この気持ちに苦しめられている自分もいるし、一方で救われている自分もいるという事実。

とてもカオス。ぐちゃぐちゃ。どこかループにハマっている感覚もある。それに、好きというポジティブな感情のせいか、それを持つことにどこか賞賛を自分で送っているようにも思える。それがまた事態をややこしくしているような気がする。そう、結局幻想なのだ。どれも。

今の段階では、どんなに好きだと願っても付き合えることはないだろう。だって、フラれたのだから。でも、思い続ければ、もしかすれば……と思い込んでいる自分。それを重い、と感じている自分。

手放すのか、それともこのナラティブで生きるのか。あるいは、それらを含んで越えるナラティブを創り上げるのか。

今の自分に問いたい。

どんなナラティブで生きていきたいか?

どんなナラティブを“かいて”いきたいか。

何のことはない、ただ大好きな人たちと楽しく生きていきたいだけなのだ。

自分にとって楽しく生きるって何だろうな。

2021.10.06.20:09

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