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1.2 記憶から来た男

「そなたは記憶から来た男を知っているか?」
名うての老店主は尋ねた。

記憶から来た男は、思念の靴音をその場に残す。
時の流れを超越し、自由に時間を行き来できる。

「人びとの記憶から記憶へと飛び移り、時間を超越していくのじゃ。」

音は虚空へと消え去り、すべては虚無に包まれる。
記憶から来た男は、そのことを告げに私の書斎までやってきた。

「なんだ?何か用か?」
「いえいえ、少々時間の余裕ができたもので。」

彼は、コツコツという耳障りの良い靴音を鳴らしながら、私の横の椅子に腰かけた。

「また小説ですか…?」
男は胸のポケットからシガーケースを取り出した。
「何か文句でも?」
「いえいえ、こちらのことです。」

しばし、男は煙をくゆらせながら、私のペン先の軌跡をずっと見つめていた。
古ぼけた振り子時計の秒針の音が、部屋の中でこだました。

どれほどの時が経ったか…。
彼は重い口を開けた。
「あなたにとって小説とは、拍動する魂に等しい。
さしずめ、存在の記憶といったところでしょうか…。」
「存在の記憶…?」
「はい。命の現存在は、すべて存在の記憶という一語に収斂されます。
この世界の存在は、記憶の地層から生まれ出づるものなのです。」

「ほう、それはおもしろい。」
私は、いままで走らせ続けていたペンをとめた。

「時とは残酷なものです。
花は枯れ果て、少女は老い、やがて醜い老婆になる。
すべての存在は、奪い去られる定めなのです。」
男はゆっくりと煙を吐いた。

「しかし、若さとは炎だ。
一時でも燃え上がる命の炎ではないのかね?」
「確かに、そのような見立ては成り立ちます。
万物はまさに神の慈悲に等しい。
すべての存在は救済される定めなのでしょうね。」

男は続けた。
「存在は、時の枷に準じます。
流転する定めは、大いなる時の流れの母なる愛です。
すべての子供を愛する、太母のように。」

「母なる宇宙には、父なる神が存在するということだろ?」
私は、目の前の冷めたコーヒーに口をつけた。

「まさに、そのとおり。」
男は相貌から笑みをこぼした。

「そして、お前の来た目的とは?」
私は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩を進めた。
「勘繰ることはありません。単なる暇つぶしです。」

「時の鞭という、運命の試練に私を誘(いざな)おうというのではないのかね?」
私は、思わず苦虫を噛んだような表情を浮かべた。
「ご察しがいいようで。話が省けます。
それでは、また後ほど。」

私が振り返ると、男は消えていた。
部屋には、男の残した煙草の甘い香りが残っていた。

私は煙草が好きではない。


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