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能力主義は正しいのか?

私たちは当たり前ですが遺伝子というものを持っています。
遺伝子は設計図のようなものといわれており、遺伝子をもとに人間というものが作成されています。
目には目の設計図が、口には口の設計図のように、遺伝子は私たちを形作る重要な存在です。
ここまでであれば体を作るためには遺伝子が必要だよね、という結論になりますが、もう少し踏み込んで能力、才能について考えていきたいと思います。

私たちは遺伝子によって体の構造が作られていますが、同時に才能なども遺伝子によってつくられているといわれています。
例えば目に見えるものだと身長ですね。
私の身長は大体165cmなのですが、たぶんどれだけ身長に気を使った生活をしたとしても170cm行くか行かないかくらいが関の山でしょう。
ですが、人によっては何もしなくても180cm以上いく人もいます。

つまり、私たちには遺伝子には絶対に抗えません。
どれだけ努力しても身長は希望通りまで伸びるわけではない。
悲しいですがこれが現実になります。

では私たちは目に見えるものしか遺伝しないのでしょうか?
そんなわけありません。最近の研究などでは程度はあるもののほぼすべてが遺伝であることが証明されつつあります。
知識、運動能力、歌唱能力など、これらは身長と同じように遺伝子以上にうまくなることはありません。


話は長くなりましたが本題に入りましょう。
これを踏まえて能力主義は正しいのでしょうか?
下記の本を少しだけ参考にして書いていきます

ここまで聞くと遺伝子が優秀で、うまく才能、能力を扱えるのであれば、能力主義は正しいといってもいいのではないか、という考え方もできるのではないかと思います。

確かに、能力が高いのであれば能力の低い人はでしゃばらないほうがいいと考えることもできなくはありません。悲しいですけどね。
どれだけ考えても知能が伸びないのであれば、遺伝子的に思考するものは優秀な人に任せたほうが合理的です。

ただしこれにも落とし穴というものが存在します。
それが本当にこれを能力主義として扱ってもいいものかという点です。
これだけだとピンとこないかもしれませんので、もう少しだけ説明していきます。

そもそも私たちが能力とか、才能というものは何なのかを考えていきましょう。
多分この地域、この国にとって有益になるもののことを指すことが多いのではないかと思います。
スポーツで考えるとわかりやすいかもしれません。
日本では人気のみでスポーツを選べるとすれば、最初に出てくるのが野球、次にサッカー、バスケ、ラグビー、バレーなどがなんとなく浮かんできます。
もちろんほかにも様々なスポーツがありますが、これらの才能や能力がある人を、我々はもてはやしやすい風潮があるのではないでしょうか。
ではクリケット、カバディなどはどうでしょうか?
これらは日本ではあまり知られていないスポーツですが、特定の国では人気のスポーツとなっております。
もし日本でこのスポーツの才能や能力があればどうなるか。
ほとんどの場合人気がないため、人から才能とか能力だと認識されることはほとんどなく、お金にもならないため、少なくとももてはやされることは野球などと比べて極端に少なくなります。
つまり才能がある、能力がある、といわれる人は、運よく適合した才能を持っているだけということになるわけですね。

こうなった時実力主義というのはおかしくなります。
過程は飛ばしてしまいますが、実は過剰な実力主義者は、実力のない者を下に見る傾向があり、実力が発揮できないものは、自分の努力が足りていない弱い人間だと考える傾向があると本書では指摘されています。
ここから実力主義で結果を出したものは運よく実力を発揮できる遺伝子を持っているだけにもかかわらず、実力が発揮できない人たちを下に見て蔑む傾向がでてくるため、社会が歪んでしまう結果を引き起こしてしまいます。
これだけでも実力主義を信仰してしまうのはかなり危険なことが分かると思います。
弱者を切り捨てる結果になるわけですからね

そしてもう一つ問題点が存在します。
それがお金で能力が買えて、お金がなければ能力を開花させることができないという点です。
もちろん一部例外というものは存在しますし、お金がなくても能力を開花させることが比較的できる国も存在しています。そして日本に関しても、勉強できれば有名大学に入れるという点に関していえば、弱者救済措置というものが全くないわけではありません。
とはいえ、塾に通えば点数を変えるという点においては、日本もこの傾向がないというわけではないですが…

それはともかく、この問題が最も顕著な国としてはアメリカが挙げられます。
というのも、アメリカでは勉強だけではなく、総合的に入学する人を審査しようとする傾向があるからです。
これだけなら素晴らしい審査方法だなと思うかもしれませんが、これには大きな落とし穴があります。
それが入学審査の項目をお金ですべて埋めることが可能という点です。
例えば私がとんでもなく勉強できたと仮定します。
ですがお金がないためスポーツや教養といわれるようなもの、オペラ、バレエなどをたしなむ余裕がありません。
となると学力一本でアメリカの入試を戦わなければいけないわけです。
では逆に勉強がほとんどできなくても、お金があるためスポーツの能力向上、教養、ボランティアなどができる人がいたとします。
こうなると勉強はいまいちかもしれませんが、お金によって能力が買えているため、勉強以外の審査項目を軒並み満点に近い形で戦うことができます。
こうなるとどちらが合格するか、といわれれば火を見るより明らかです。

全てを100点ずつで審査すると仮定して、前者は勉強が100点だとしてほかは0点に近い形になりますが、後者は勉強が0点に近いとしても、ボランティア、運動、教養などが50点も取れればそれだけで合格することができます。
お金で何とでもなってしまう。
これが能力主義の悲しい点になります。

ですが、こうなってしまうと新たな問題が発生します。
お金で解決できるとは言え、当然お金持ち全員が多くの金額を投入するようになるわけです。
そうなると皆がすべての項目を100点に近い形で埋めようとするため、同じような人間が出来上がります。
ボランティアして、人気で教養のありそうなスポーツをして、勉強できて…
という完璧な人間が量産される結果になります。
これではロボットと何ら変わりません
(更に不正して入学しようとする人もいたりしますが、これはこれで話が長くなるので割愛します。)


貧乏な人は、どれだけ能力があったとしてもお金がなければ開花させることが難しい。
これは本当に実力主義といえるのでしょうか。
ただの資本主義、というより金持ち主義といったほうがいいのかもしれません。

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