何もしたくない、死にたすぎ~
おもむろに善人ヅラして近づいてくる 見抜けず受け入れる僕が悪いけど きっとお前らの親近感がそうさせる 表層だけで被害者ぶって 同情を誘って その浅い悲壮感で何人を垂らしこんできた? 処方薬漬けの日々で記憶も朦朧として 動けなくてブクブク肥るだけしかできなかったか? 違うよな?知ってる だって全部構って欲しいだけだもんね 簡単に近づいてきて 中身空っぽで 知識人ぶるのは辞めてくれよ 僕の気持ちもぐしゃぐしゃにして 更には簡単に思い出さえも土足で荒らしていくね それがお前らだ
医者はぼくに「貴女の希死念慮は自己肯定感の低さから来ているから、自己肯定感が高い人とお付き合いするといいよ。」と告げた。 だが、あまりにも高い人に近づき過ぎると自分が辛いだけである。 本当のところは"自己肯定感を一緒に高めあえる人"と一緒にいることがいいように思う。
───"大人になるということ"をぼくは幼い頃より恐れていた。 物心がついた頃に"大人"と認識をするのは、家族あるいは自分の身近な大人だと思う。そしてその人らを見て言動に耳すまし育つ、少なからずともぼくはその"大人"たちの影響を受けて今の人格が備わっている。 ぼくの場合、ヒステリーな祖母と母と「ありがとう」「ごめんなさい」が言えない祖父がいて、哀れな老人を演ずる悲劇のヒロインの曾祖母がいた。それをいつからか反面教師にして過ごすようになったが、もちろん彼らにもいい面はあるがこ
なんとなく、で続く日々が幸せであることを忘れたくない。 自分たちらしく、幸せでいられる日々を変えたくない。
いくつもの選択肢があっただろう。 でも、ぼくは今の道を選んだからこそ、今の恋人にであい愛されている。 この道でよかった。ぼくがぼくでよかった。
昔、折角の長期休みに帰省してきたのに、家族が宗教関連の関わりで他人の悪口ばかり言っていて気になったので「大人になって悪口ばっか言うの辞めなよ」と言ったら「御霊が違うのね(私たちとはの意)」と言われて「はあ?」となった事がある
「あんなになってお母さん悲しい…」そう、母は泣いた。 僕が自殺企図をした日のことだ。 気がついた頃には母と父は離婚していて、母方の祖父母のいる家庭で育った。 祖母から「父親に鼻が似ているから嫌だ」「父親に甲斐性がないところが嫌だ」と言われ、祖父には廊下を引き摺られて家を追い出されそうになった記憶が強くある。 母は、そんなことになっていたとは僕が家を出て、僕が母に伝えるまで露知らずであった。典型的な毒親の祖父母にほとんど育てられた、それが僕だ。 一方母は、"親"というより、
ただの精神疾患者なのに、一部霊的体験だと位置づけてくる祖父母の言葉を聞く度にため息をつく。
自分で"ウチとソト"の感覚だと位置づけていた思考が、離人症の症状だ、ということは1年前に他者に話していて気が付かされたことだ。(主治医のお墨付き) だがしかし、また1年後の今に「ずっと離人症に悩まされていた」ことに気が付くとはつゆとも知れず。 今回も、他者に言われて気がついた故、ネットで診断なるものをしてみたら、自分の思考は全て離人症の症状の様な気がしてきたのだ。 クリエイティブなモードに入る時は恐らくいつも離人をしている。 自分としてはADHD(診断有り)の過集中に当た
よく写真作家は「優しさについて」提議しがちではないか?
私のあれは、ある種の「ガチ恋営業」に似たのようなものだったのかもしれない。
空を綺麗と思って写してもそれだけじゃいかんのです。それじゃあ凡人なのです。凡人で終わりたくないと思った私も今では平凡な幸せと安定を望んでその矛盾に苦しむのです。
誰も明日が来るだなんてましてや1秒後のことなど、どのように進むかわからないのに。やくそくできないのに、信じて、言葉を紡がず留めておくなどをしてしまう。 いつ、終わるかわからないそれに希望を託す。 誰かに、又は何かに想いを馳せるという行為はとてつもなく人間の体力を使うのではないか。 だが、それをやめた途端に人間である意義も同じように失うと思う。 やめたも同然になったその時がそれだ。
いつしか、私は宵闇や夕焼けよりも朝陽が好きになった。 きっかけは、朝まで大好きな人たちとお酒を飲んだ後に坂を上がるといつもあたたかく、眩しい太陽が私の背中を押すように……力強く、押すように照らしてくれていたからだ。 そんな時、私はそのあたたかさに母親が抱き締めてくれた時のようで安心していたのかもしれない。 今ではそれよりも、朝のパリッとした空気の方に惹かれる。 死ぬならば、大好きな星空の下よりも、流れゆく雲を眺めるよりも、はたまた綺麗なグラデーションを成す夕焼けよりも、朝
認められたいとどれだけ藻搔いたとしても認められず、隠されて、消される。