PINCH

うんこは男のものではない。

女の尻からは真っ白なマシュマロが出ると思ったら大間違いである。

残念ながらどれだけ可愛い女の子にも便意はあるし、トイレで踏ん張る時に虚を見つめる瞬間を「可愛い」と「可愛い」の間に挟みながら生きている。その際、シャララ〜ン!みたいなファンシーな音を発するわけもなく、普通にブリブリ、無骨な音を出す。

女の人生、どうしようもなくうんこ漏れそうでヤバいって時も、場合によってはある。

今の私がそれだ。

私は今まで三十余年の人生を、仕事ができる女でやってきた。やってきた、というのは属性としてそれを選んだという意味だ。ファッションに命をかけてきた女もいれば、男にモテることに全力を注いできた女もいれば、アイドルを追いかけることに金や時間を費やす女もいる。早くに子供を産み家庭に入ることを幸せだと定義してそれを遂行する女もいる。ドラクエの職業選択みたいに女の属性はある程度の型が決まっていて、私はその中から「仕事ができる女」を選び取ったのだ。

私は仕事ができる女なので、今まさに会社の重要な会議に臨んでいる。私が勤めているのは社員1万5千人もいる大企業で、その中で女性として管理職についているのはほんの一握りだ。そのほんの一握りの地位を手にしている私がほんの一握りのうんこをこの会議室で漏らしたらどうなるだろう?

しかも今日の私はよりによって白いパンツを履いている。万が一、私の腸の内容物が滲み出るようなことがあった場合「ここにうんこがありますよ」と狼煙を上げたも同然だ。

額に汗が滲む。会議室の前の方で、今期の数字が云々と取締役が大事っぽいことを言っている。「取締役」という肩書きの彼はきちんと肛門も取り締まってんのかな。うんことか漏らしたことなさそうだもんなあの人は。

ここで私が「ちょっとお手洗いに……」とエレガントさを醸し出しながら席を立てば良いだけの話なのだが、もう立ち上がれないくらいのレベルに達してしまっている。スクリーンに映し出される色とりどりのグラフが目に悪い。目から腸を刺激されている感じがする。私の腹痛の折れ線グラフは順調に、右肩上がりに推移している。

「管理部の佐々木さん、たしか昨年度の資料がありましたよね。あれを投影してもらえますか」

取締役はそう言う。急にバトンを渡された私は狼狽える。長机にずらりと並ぶおっさんたちが一斉にこちらを見るのが恐ろしい。びっくりした拍子に尻から5ミリほど何某かの物体が出た感じがする。

たしかに、彼の言う昨年度のデータは私の手元のノートパソコンの中にしっかりと入っている。
しかし、取締役の要望通りにこのデータを前方の大きなスクリーンに映すためには、この席から立ち上がり、偉そうに座るおっさんたちに尻を向けて十歩ほど歩き、床に置いてあるコードをかがんで手に取り、ノートパソコンにそれを刺す、という複数の刺激的なアクションを実行しなければならない。

サーモグラフィーで今の私を見たら尻だけが真っ赤になっているのではなかろうかというくらい、私は尻の穴に全神経を集中させている。椅子から立ち上がるだけでも「終わり」が訪れる確信がある。

なかなか立ち上がらない私を不思議そうに見つめながら、取締役は再び口を開く。
「佐々木さん、どうしましたか」
「ハッ…ス」
もう、ハキハキと返事をすることもままならない。「ハ」と「ス」はなんとなく余力で発声できるので取り急ぎそのように返事をした。「ハッ…ス」でなんとか凌げる場面でよかった。
今「ザ」とか「パ」とか腹に力を込めて、意気込んで言わなきゃならない種類の言葉は無理である。「ざるそばジャパン」とか言わなきゃいけないシーンだったら終わっていたところだ。

私の横に座る後輩の園田も「佐々木さん、どうしたんですか。顔色やばいですよ」などと小声で話しかけてくる。そんなことを言う暇があるならお前がデータを投影しろ。お前も持っているはずだろう。そう指示を出す余裕すらなく、弱々しい笑みを浮かべることしかできない。

先ほど驚いた拍子に少し出してしまった件の「到達具合」が気になる。それが例え白いパンツの外側に達していなかったとしても、臭いの問題がある。ずらりと並ぶおじさんたちも、私の通り過ぎ際に例の芳香がしたら「あいつ…?」とピンと来るだろう。そうなったら私の今まで築き上げてきた地位は?
私が女として管理職に就いていることを、快く思わない人間も少なからずいる。私が今日この場で失態を犯してしまったら、陰で「これがほんとの汚職ですね」「ボーナスはトイレットペーパーでいいんじゃないですか?」「ガッハッハ」と意地悪ジジイどもが大盛り上がりになることは必至だろう。

「佐々木さん早くしてもらえますか」

取締役が明らかに苛立っている。ここでぐだぐだと時間をかけるよりも、多少うんこ漏れてでも取締役の思い通りのデータを届ける方が、むしろ評価は上がるのではないか。身を呈してでも、実を出してでも、データを届けるその勤務姿勢に、むしろ称賛の声が上がっても良いのではないか。

私はそう自分を納得させ、満を持して立ち上がった。その瞬間、明らかに何か出た感覚がある。しかも、パンツを押すように、大量に。
もうこうなったら仕方ない。死ぬわけではない。どんと来い。

『シャララ〜ン!』

その時、私の尻から、到底人間が出すとは思えないようなファンシーな音がした。私はちらりと自分の尻を見る。パンツは真っ白のままだ。

並んで座るおっさんたちの横をそろりそろりと通り過ぎるが、誰一人として不愉快そうに顔をしかめたり、隣の人間に耳打ちをしている者はいないことに違和感を覚える。私のことを気にも留めない様子である。

覚悟していた不快な臭いは、いつまで経っても届かない。
代わりに、甘いお菓子のような香りが、広い会議室中に広がっているのに気が付いた。

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