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私の一冊の本 ドストエフスキー『白痴』

1979(昭和54)年12月『総合教育技術』12月号、小学館
私の一冊の本
ドストエフスキー『白痴』
京都大学教授 作田啓一

 ドストエフスキーの小説(米川正夫訳)を毎日読みふけり、そのあげく世の中が今までとは別なふうに見えたのは、十六歳の冬であったと思う。ドストエフスキーに限らず、この時期に読んで感動した本が最も強く記憶に残っている。ここでは『白痴』を挙げておいたが、私としては『悪霊』でも『カラマーゾフの兄弟』でもよく、要するに『罪と罰』以降の長編小説のどれでも同じことなのである。初期の作品や『永遠の夫』も、ドストエフスキー以外のだれも書けないものだが、これらは完成度が低いか、あるいは規模が小さい。後期の長編小説の中で特に『白痴』を挙げたのは、プロットが一つで、よくまとまっているからである。

 ドストエフスキーの文学が私に与えた衝撃の性質はなんであったのだろうか。そしてその当時ほどではないにしても、時たま彼の作品をひろい読みする時、今もそれらが私を揺り動かすのはなぜであろうか。ドストエフスキーの作品が一つの独自な世界を構成しているためだ、と答えるほかはない。彼の作品の中に登場する人物は、わき役にいたるまですべてドストエフスキー的な特徴をそなえている。レーヴェジェフやイヴォールギンなしには『白痴』の世界は成立しない。賢くて誇り高いが、しかしまず平凡な若い女性と言ってよいアグラーヤでさえ、西欧の普通の小説に出てくる女主人公たちとどこか違っている。しかしドストエフスキーの世界の独自性は、登場人物たちを通してのみあらわれてくる、というわけではない。彼の作品の中では、一方では一つの場面で描かれる人間の瞬間的な感覚、すなわち苦悩や歓喜、その他命名することのできない重苦しい感覚や甘美な感覚と、他方では主人公たちによって語られる宗教哲学の大演説とが、つまり瞬間的な感覚と一貫的な思想とが、相互に支え合って大建築物を構成している。ドストエフスキーの心理学と哲学とは切り離し難く結びついていて、ドストエフスキー的システムを形づくる。

 「ドストエフスキー的」とか「独自な」とか「どこか違う」とかいった形容は、もちろんなにごとも語っていない。しかしその「ドストエフスキー的なもの」を明確に規定しようとすると、「ドストエフスキー的なもの」のどこかの部分が脱落してしまう。たとえばベルジャーエフは哲学をうまくとらえたが、感覚の側面をすくい上げることができず、小林秀雄は感覚の深層に触れたが、哲学者の面影を見失ってしまう、といったぐあいである。だから、残された数行で私がなにごとかを語りうるはずはない。私としては月並みな言葉を繰り返すことしかできない。ドストエフスキーは真理を語った。真理とは何か。自己の周囲に壁を築き、直線的に上昇しようとする自尊心と、自他のあいだの壁を溶解させる愛とは、根源においては一つであること。そのことに気づきさえすれば、人は自尊心を捨てるであろう。ドストエフスキーが実生活においてこの真理に到達しえたかどうか、われわれは知らない。しかし真理を語るとは、真理を信じようとする心を語ることなのだと私は思う。

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