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下衆な心の扱い方

わたしの心は下衆な気持ちで溢れている。下衆な気持ちは、美しいものを見れば生まれ、汚いものを見れば生まれ、他人と比較すれば生まれ、孤高を気取っては生まれ、疎外されては生まれ、疎外しては生まれ、愛しては生まれ、憎んでは生まれる。つまりいつもどこかで生まれている。

この気持ちを無いものとして澄まして生きていると、のっぺらとした生物になる。
この気持ちの上に胡座をかくと薄汚い生物になる。
どちらの場合も下衆な気持ちを直視していない点では同じで、そうすると心の作用の大半を無視して生活しているわけだから、機能不全は当然の結果である。

わたしは人生の中盤の長い期間を前者のやり方で機能不全に陥ったままずっと過ごしてきたように思う。胡座をかく図々しさはなく、ましてや下衆と戦う強さも、認める潔さもなく、箱に押し込め押し込め、せめて涼しい顔で蓋を力一杯抑えながら生活していた。

今朝、ふと思いついて箱の中から下衆を取り出してみた。
汚らしいけど、別にどうってことはない。多少動悸は高まるが、心臓をぎゅっと締め付けられるようなことはない。
要するに、ぜんぜん怖くなかった。汚物をうわぁ汚い、と言いながら片付けるようなもの。ほんとうに、どうってことはないのだった。

生まれて半世紀を過ぎたある朝、こうしてわたしはようやく自分の中の下衆をつまみ上げた。
こうなれば、ポイと捨てるも、泳がせて嗤うも、なにか別の美しいものに変化させるも自由自在なのである。
下衆な心を自由自在に扱ってみようじゃないか。

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