NOT_EQUAL_三峰結華

NOT≠EQUAL・三峰結華におけるプレイヤーの傷心の考察(2020/04/04改訂)

項目一覧

はじめに
事前注意です。軽く一読していただけるとありがたいです。

なぜ我々はダメージを受けたのか?
個人的解釈による評説と考察

・導入文
・三峰結華とは

三峰結華の人間性と魅力について
・等号に切り込みを入れる
なぜ傷ついたか?その過程の考察
 @記号化
  記号化について
  *傷ついていく流れ
 @機微の観察
  機微タイプにおいて
  *淡い恋心とNOT EQUAL以前
  三峰結華のPドルの関係性とNOT EQUAL以前の状況について
  *傷ついた詳細
  NOT EQUALの個人的考察や感想

運営の意図とは?
このコミュを始めとする運営の姿勢の推察

おわりに
余談です。言い訳がいっぱい書いてあります。

はじめに

僕は三峰担当ではないので担当の方と比べると解釈が甘いかもしれません。それに関してはご容赦ください。
この文章はNOT≠EQUALリリース前の状況をある程度前提として書いていますが、考察とは名ばかりの怪文書です。
内容は三峰3、プレイヤー5、その他2って感じです。
またNOT≠EQUALについても当然そうですが、その他の三峰結華のカードのネタバレや、イベントStar`n dew by me、灯織やめぐるについての考察やネタバレも多少含みます。ご了承ください。

*本稿では、三峰のPラブ解釈というセンシティブな箇所に触れざるを得ません。なるべくニュートラルな意見を意識しているという主張も兼ねてこの部分に対する但し書きを書いておきます。気にしない方は読まなくて結構です。

          ***
本稿では、彼女がしばしば行う「思わせぶりな行動や言動」を、「恋人ごっこ」。それらの源流となる感情の事を「淡い恋心」と命名しています。
これは各人に「三峰がPラブである」という解釈を推進する為のものではなく、NOT EQUALにて三峰が勘付いた(あるいはNOT EQUAL以前で無意識に抱いていた)ある種の越境行為や越境感情への便宜的な命名に過ぎません。
後にこの事についてまた詳しく説明していますが、あらかじめこの事についてご了承下さい。
          ***

こういったものを書くのは慣れていませんが、まあ暇つぶし程度に読み流していただいて貰えればと思っております。

なぜ我々はダメージを受けたのか?

(ここからは完全なる個人の偏見になるので、あくまで参考意見として捉えてください。)

本カードにて傷ついたプレイヤーとは、おそらくは知らずして彼女の魅力に踊らされていたり『堕ちていた』プレイヤーであると自分は推測している。
というのも、我々は基本的にキャラクターへ感情移入や理解を行ったり、彼女らの魅力に取り憑かれて楽しむことでノベルゲーを楽しんでいる。これはキャラの魅力に重きを置くシャニマスでは至って普通で非常にスタンダードな考え方だろう。

だが、NOT≠EQUALのコミュを見た際に傷心を覚えたプレイヤーが一定数居る。実際自分も全部見終わった後溜息のような吐息が漏れたのだが、それぐらいに衝撃的なこのカードのお話では、彼女の悲しげなモノローグに漂う嫌な予兆を始めに、わずか1話目にしてそれが確信へと変化する。
そして、終始気の重い雰囲気で話が進み、最後には結局結華いつもの調子に戻る。しかし、その起承転結を見届けた後もどこかしこりが残るような哀愁に包まれていく。

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(コミュ1:[これが間違いなんだとしたら]冒頭)

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(コミュ3:[雨の中(二度目の)正解をくれた])

いわゆるキャラクターを売りにし、漠然とした幸福感を前提としたキャラゲーでは中々類を見ないエピソードであり、またそういった前提条件を無意識に受け入れている者にとってもこのコミュは中々の劇物だろう。
でもなぜ劇物足り得たのか?
無知の人間からすればただのシリアスにしか映らないNOT EQUALだが、三峰についての情報を構築するごとに、このカードに漂う言い表せぬ靄は実態という名の鈍器となるのだ。
そして自分はこれから、なぜこのお話で傷心したのかを個人的な所感と偏見とともに論を連ねていきたいと思う。

だがその前に、シャニマスとはそもそもどういった類のゲームであるのか?
当然安易に人が死ぬとかそういう過酷な世界観を土壌にしておらず、むしろその対極に位置する常識や現実と言った世界観のなかで漠然とした幸福感、いわばしあわせに従属する雰囲気に浸かっていくゲームである。

こういったジャンルにおいてプレイヤーを「道理に準じて」傷つけるのは至難の業だ。
無論、ただ不快なイベントを生じさせて嫌な気持ちにさせるのならば簡単で、こういうジャンルが持つ特有の不文律を著しく破綻させるだけで構わない。だがそれは二次創作の土俵で許される技法であって、コンテンツの舵を担う公式の所業としては禁忌に等しい。
つまり我々が無意識の内に納得しつつ傷つくためには、または運営が脱法をしつつ我々を快く傷つけるためには、特有の不文律に則って状況を作る必要がある。

・三峰結華とは

本題に入る前にまず三峰結華はどういう人間なのか? それについて所々の考察を加えたいと思う。

というのも彼女は普段、よそ行きのペルソナを装って他人と接している。それは著しい変化をもたらすものではなく、単に「お調子者」として他人と過ごしている程度のものだ。
そこに何か彼女なりの特別な事情が挟まれているのかは定かではないが、少なくとも黛冬優子のような強い信念に裏付けされた確固たる鎧というよりかは、自身を丸く包む為のベールやオブラートのようなものに近い。実際の社会においても一定数存在するタイプの人間だ。

基本的に彼女はそういう振る舞い方をするため、本心を戯れのコンシーラーで覆い隠してしまう。
また彼女自身もそういう立ち振舞い方に徹し、そして本心に踏み込まれる事に対して恐怖にも似た嫌悪感を示す為に、三峰結華は普段から「お調子者」としての自分を意図的に周知させている。
なので、三峰の本心や内側の部分は基本的に彼女自身が本心を曝け出す事でしか垣間見れない。

また彼女には卓越した客観性と観察力を備えている事も特徴だ。
または、お調子者としてのペルソナを上手に操るためにはそれらの要素が不可欠だったとも言える。
彼女は社会性を高く保つ為に客観性と観察力を養ったのか?
お調子者として振舞う過程でそれらを身に付けたのか?
これは卵が先か鶏が先かという話になってしまうし、現時点では不明瞭なものなので何も言えないが、彼女はそれらの二つを上手く使いこなす事によって潤滑油としての役割を全うしているのは確かだ。
悪く言えば、常に自分の事を二の字にしてしまうとも捉えられる。これはアンティーカのメンバーと触れ合っている時には顕著な特性だ。

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(【等身大のレイニーデイ】の一幕にて。焦った恋鐘の様子を抑えた三峰は咲耶に感謝されるが、その際に本心を隠してとぼけている)

そんな彼女がお調子者として他人と会話する時はひょうひょうとしてノリもよく、その場の雰囲気を楽しくさせようとし、時にはグループの人間のブレーキング等も行ったりする為、普段の彼女は女性としての魅力を押し出すというよりかは人間らしさの部分での魅力を持っていて、それはまるでフランクな女友達のようである。
しかし、そんな彼女とてフレンドリーの範疇からはみ出す場面も存在する。

それは主にプロデュースコミュ、いわば三峰とシャニPが一対一でコミュニケーションを取る場合であるのが主だ。
それは例えば彼女が何かの拍子でシャニPを特別視した時などであり、その時の三峰はペルソナを剥がし心を握るような声色でPに迫ってくる。
このときの彼女はいままでの態度とは打って変わり、シャニPに対して特殊なアクションをけしかけたい場合にてその声色を顕わにする。

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(【お願い、ただの少女がいい】にて)

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(【雨色上機嫌】にて)


そして、その変化を目の当たりにしたプレイヤーは彼女の事を一気に魅力的だと感じる。もう少し俗っぽい言い方をするならば「ガチ恋する」「沼に堕ちていく」という感じだろうか。
まるで何かの褒美かのように彼女の中身は垣間見せられるので、プレイヤーは三峰結華の本心を知った事に対して一層特別感を感じていく。
また彼女もシャニPや信頼できる仲間に対してのみそれを顕わにするのだが、そのシーンは決して多くはなく、特殊な状況下でのみ発生するのでその感情は更に助長されていく。
こうして彼女の裏表を知ったプレイヤーは彼女に対して魅力を抱き、また彼女の事を「好きだ」と感じていくと思われる。

要するに彼女の魅力とは、自身の内側をペルソナによって巧妙に隠し、人間関係を円滑にしようと奮闘していく人間臭さ。
それと、Pとアイドルという異性への感情を排斥すべき立場でありながらそのスキャンダラスな境界に漸近してくる彼女の危うさ、それに伴ってプレイヤーが感じる背徳感なのではないだろうか。
しかも、彼女はその境界に漸近しても決して一線は超えず、あくまでPとアイドルという関係でのチキンレースを楽しむに留めている。
そのポリシーは三峰結華曰く、「Pたんを信頼しているから」である。
(とんでもない理由で俺らを誑かすなあこの女…)

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(【お試し/みつゴコロ】にて。この後Pは三峰にしてやられる)


この、「特有の不文律に則る」ということを逆手に利用した描き方で、なんてことのないお調子者の彼女をほんの少しのエッセンスで他18人に肩を並べる人間へと昇華している。

実際にコミュを見ないとわからない箇所もあると思うが、ライターは実に絶妙に上記の事や彼女の人間性を描いている。

・等号に切り込みを入れる

さて、長々と三峰結華の特徴について語ったわけだが、ここからはいよいよ〆に向かっていく。

我々が三峰の魅力を感じられるようになり、少なくとも彼女に対し行為を抱くようになった時、それは同時にNOT≠EQAULで傷つくだけの既成事実が出来る事でもある。つまり、ここまで来たんだから当然傷付くよね?という状態になったということだ。
だがそれを詳しく説明する為にまず我々の心理を簡単に整理しよう。

まず結華の魅力を知り、彼女の事が好きになる。
そしてその結華の魅力を知った我々は彼女の一挙手一投足に注目する。
それは時には何かの絵で、時には誰かの文章や他人の語る彼女の魅力、時には公式コミュでのお話等で彼女を意識し、我々はその都度「可愛い」や「美しい」等の感情を抱き、愛情のようなものを育む。

我々が結華を知ってからは恐らく概ねこんな次第で、担当ならば更に著しいだろうか。担当でなくとも彼女に一定以上の感情を抱いてしまえばどれかには当てはまると思う。
きっとNOT≠EQUALに触れるまでの内面は概ねこうであろう。

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(参考資料)

そして今回、自分がプレイヤーの傷心の根源を考えるにあたって注目したのは、「彼女をどういう風に愛していたか?」ということだ。
なので私は、プレイヤーはシャニマスのキャラに対し大きく二通りの惚れ込み方をしていると考え、それに沿って心情を考察した。

1つはキャラクターの記号的特徴に魅力を感じること。
2つはキャラクターの人間としての機微に魅力を感じることだ。

記号的特徴とは、言わば「属性」といってもいい。
彼女をキャラクター化する際に付け加えられた様々な属性が記号的特徴である。
こういった人々は、この料理の味が好き、食感が好き、という好み方の延長線上でキャラを好み、いわゆる予定調和さ、一定さにある種の安心感や充足感を得てキャラを好む。

そしてもう一つの人間の機微に魅力を感じるとは、平たく言えば考察勢や解釈勢みたいな感じだろうか。
(三峰Pはキャラの特性上こちらのタイプの方が多数を占めていると感じる)
とにかく、キャラクターの行動原理や感情の揺れ動き、考え方、性格といった人間性の根幹に関わる部分について深く考え、またその過程でキャラへ感情移入し惚れ込んでいる。

この二つは対極的だが、プレイヤーはどちらかに二極化してるというより両方を兼ねるバランサーが実際には多いと思われ、実際このどちらに偏るかは本質的な問題ではないと考えている。
どんなタイプであるにせよ、「しんどい気持ちを味わった」というのが本件の着目点であり、それを説明するにあたってなるべく包括的に考察をまとめたいが為の二分化である事を了承していただきたい。

しかし、その傷心のためにも、まずキャラクターへの盲目的な愛が必要不可欠であり、記号化するにしろ感情を追っかけるにしろ、まずこの状態なしにはしんどくなりえない。つまり全ての土台や基礎のようなものであり、それは先に示したNOT≠EQUAL以前の我々の内面そのものなのだ。


@記号化

さて、こちらでは記号化によって何故傷ついたかについて考察していきたい。

そもそも我々は結華のどういった属性に魅力を感じているのだろうか?個人的に考えた彼女の属性を列挙するとすれば

・メガネキャラ
・サブカル系のラフなファッションに身を包む大学生といった実在性
・ドルオタ、ゲーマーというオタク趣味に造詣が深い
・前項の通りフランクなお調子者
・メガネを外すと美人
・割とメガネは外す
・かわいい
・顔が良い

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満開三峰

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といったあたりだろう。他にもいくつかあるだろうが割愛させてもらった。
(カメ峰の笑顔ほんと好き)

これらは所謂「わかりやすい」属性だ。
いわば運営によって予めわかりやすく提示されているものであり、彼女への引っ掛かりを生む効果を発揮している。
だがこれらの属性は所詮人を引っ掛ける程度であり、また引っ掛かっているだけではまだ心を深く傷つけるに足らないだろう。
では何故深く傷ついたか?
それを説明するにはまず一回プリミティブな所に戻る必要がある。
そもそも「属性」とはどういう概念か?
旧い言葉を借りるとすれば、いわゆる「萌え要素」のことだ。キャラに対する愛しさを覚えさせるための様々なエッセンスである。
このエッセンスの種類はかなり無造作であり、枚挙に暇がない。ともすれば、愛しさを覚えるものならばそれに確たる現実性や整合性など放棄しても構わないといった、ある意味懐が広いというか呆れた器のデカさを覚えてしまう程だ。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%90%8C%E3%81%88%E8%A6%81%E7%B4%A0%E3%83%BB%E5%B1%9E%E6%80%A7%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

こういった先人の趣向を汲むとすれば、萌え要素もとい属性とはキャラに愛しさを覚えるものならば本当に何でも良く、それがどんなに複雑でも「属性」で片付けても構わないという事だろう。

以上の事を踏まえて本題に戻る。
本項の初めに列挙したのはいわゆる分かりやすい属性である。
しかし、属性に法がないのならば「分かりづらい属性」があっても良いのではないだろうか?それらの「分かりづらい属性」とはいわゆる彼女の根幹に関わる部分での魅力のことだ。
その部分とは前項で記した彼女の危うい部分や奥底の部分の事である。

つまり、彼女の分かりやすい魅力、分かりづらい魅力を全部ひっくるめて「属性」として片付け、記号化タイプはその「属性」を愛していると私は言いたいのだ。
これだけ聞くと暴論のように思えるが、例えばあなたに恋人や好きな人が存在しているとしよう(次元は問わない)。
あなたがその好きな人の魅力を全て挙げろと言われた時、あなたはきっと「〇〇なところ」といった非常に単純で挙げやすい情報から「〇〇って考えて〇〇ていう風にする所」といったその人のことを深く知らない限り知り得ない情報まで列挙するだろう。
だが、その時の後者の情報とは、まさに「わかりづらい属性」そのものではないだろうか?

よって、属性として全部ひっくるめて愛する、「属性化して愛する」というのは存外不自然ではなく、またそれが一見暴論のように感じても人やキャラクターに対し盲目的に愛している人間にとっては以外にも無論なのだ。

少し話を戻すと、我々プレイヤーは作中において「プロデューサー」という皮を纏っていて、ゲーム中のPも、その役職を意識した立ち振舞いを行っている。
だが実際のところにおいては、プロデューサーやそれに類する役割はこういったハーレムじみたコンテンツで形骸化しがちな概念で、それは言うなればハーレムという独特な状況下に辻褄をもたせるための道具のように扱われてる大人の事情を孕んでいる。

特に、こういったコンテンツに触れて日常の疲れを癒すという内に孕んだ欲望や思惑の前では、リーダーの役割やそのポストの持つ意味といった社会的倫理観などが形骸化しやすい。
それは心労を癒やす、心の清涼剤としてコンテンツへ対する場合に無意識で起こる微小な退行作用みたいなもので、退行するが故に、なるべく通常社会から逸脱した状況へと没入したがる。”夢らしさ”に意識を向けがちになってしまう。
いわばそういう意識下で通常社会の姿勢を持ち越すのは心労を感じるが故、そこに対しある程度知らんぷりをすることで社会意識を排斥して我々は夢に浸かっている。
つまり役割をある程度放棄し、キャラを愛するなどの心地良い行為に注力するのだ。

また別の観点からで言えば、日常の限られた自由時間の中で作品にシフトするための時間、没入するのに要する時間が長いと煙たがってしまうからというのもあるだろう。
それが長ければ長いほど没入時間は減ってしまうし、また少ない時間でコンテンツを楽しむ為にもシフティングの簡略化は不可欠だからだ。
だからキャラを愛する時も、知恵の輪のように頭を使って愛するよりかは、もっと思考を単純化して愛した方が都合が良いと考える。
つまりキャラの愛し方にも煩わしさの排斥は及んでいて、またそれが一定さを伴っているなら尚良く、なるべく能動性を生じない方が好ましいということだ。
実際、属性化して愛するといった固定化を行う記号化タイプにとって能動性を気怠く感じるのも大方自明だと思われる。
逆に言えば固定的であればあるほど愛しやすさも増えて、楽だ。ということだ。

それに、一度固定化してしまえばキャラに対する輪郭も一定になるので、他のプレイヤーとのわかりやすい共有感を認識し、思考も楽で、没入するためのシフティングの時間も短くなる。
また、欲望に身を委ねたい人にとっても「属性化して愛する」というのは、キャラを愛する事に注力するための効率的なメソッドにもなるだろう。
つまり「属性化して愛する」という事は、これらの現実的な側面における一種の極限として捉えられる。

しかし、アイマスにおいて、もしくはシャニマス内において我々はあくまで「プロデューサー」だ。
我々は作中において仕事人であり、他人の人生を預かって導いていくちょっとした教師であるが、その立場でハーレムに鼻を伸ばしたり、記号化して他人を固定的に愛したり愛に躍り続けたりしてはプロデューサーの役割が形骸化してしまうというもの。

シャニマスはこういった、いわば当たり前の不文律や忘れられがちな自然法の部分での意識をソリッドに捉え、描いている。
ありふれた現実的社会倫理観を正確に捉えて話を展開していくのだ。
とはいっても彼は冷酷な仕事人として描かれているわけではなく、どちらかといえばフレッシュで毅然とした人格として描かれ、そこにプレイヤーが親近感を覚えたり「緩み」を感じる部分が集中している。
だがそれでも彼自身が「プロデューサー」としての観念を崩すことはまれであり、彼はどこまでも生粋のプロデューサーとして立ち振る舞い、そこに抜かることはあまりない。

つまりこの時、記号化によって自分たちはプロデューサーでありながら三峰結華の「恋人ごっこ」にかまけているのだが、作中のシャニPは「プロデューサー」として全うしているが為に姿勢や態度の齟齬が発生しているのだ。作中のPとプレイヤーが乖離していると言っても良い。

よって自分は、記号化してこの状況に陥ったことで傷心したと考えた。

傷ついていく流れ


まずNOT EQUALでは、冒頭からいつもとは全く違うペルソナを剥いだ状態の三峰を見せられるのだが、その声色はいつもの跳ねるような雰囲気とは異なり、かといって普段のような恋人ごっこらしさも感じられない。
そのまま普段と変わらないようなやりとりを交わすも、突如「まるで結華じゃないみたいだ」というプロデューサーのセリフによってそれは打ち止められる。彼女は装うどころか傷ついたようになってしまう。

つまり、もうこの時点で我々の期待は裏切られ、「属性」も失われ、一定さすら喪失している。
歩いていた一本道が唐突にぐらぐらな一本橋に変化している。

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そしてコミュ2で彼女はプレイヤーを突き放すような発言を行うが、このときのPのレスポンスはある意味で一定なものだ。
(I♡DOLLとかFANCY24gでこの部分にすごく気を遣うようになってるのはまた別のお話)

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(「結華って呼ばないで欲しい」に対するシャニPの返答の一部。プレイヤーからすれば大分ショッキングな発言にもシャニPは真摯に対応する)

ここではキャラクターに自分を否定されるという追い打ちをかけられ、更にはシャニPの真摯な姿勢と、我々のショッキングな心理とに乖離が生じている状態になっている。
そしてコミュ3でやっと和解するのだが、なぜそうなったか分かりやすい説明はせず、必要最低限のテキストと情緒的な演出で真をぼかされて終わる。

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このやりとり理解するには、それなりの考察に裏打ちされた行間の把握力を要し、それは属性で型を嵌めてゆったりと楽しむような記号化タイプには気難しい作業だ。きっといままでのコミュを見て漠然と楽しいと思っていた者は、何かもやのような不安感に包まれる感覚に陥ると思われる。
そしてコミュ4、Trueでいつも通り(厳密には異なるが)の結華へと戻る。

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ひとまず元に戻った事にプレイヤーは一応安堵はするものの、多大なショックと漠然とした不理解感に包まれてしまい、こころにしこりが残ってしまう。

カードを手に入れ、「三峰結華との恋人ごっこ」という構図を期待していた人はその期待を冒頭1秒で奪われ、またその重苦しい展開に胃は重くなっていく。
また、「結華じゃないみたいだ」という本当に造作のない一言を「プロデューサー」が最初のコミュで発することによって、彼女は長きに渡って傷付き続けるのがまたライターの容赦のなさを感じさせる。
それはまるで自分のせいで傷ついてしまったことのように思わされて、またメガネキャラやサブカル系ファッションといった見慣れた属性を持ち合わせていない彼女の格好を「結華らしくない」とドストレートなワードを使って褒めたらかえって彼女を傷付けてしまったと意図的に感じさせられる事によって記号化してたことを一瞬で悟ってしまう。

更に付け加えれば、結華とは双方向性の愛を共有しているという固定観念に囚われていたプレイヤー程そのショックは大きかったのではないだろうか。
私は、しこりの正体とその大小の差異の原因をこれだと考察する。

というのも、記号化すればするほど単純化した思考プロセスに凝り固まり、そしてそれらの固定愛はまるで固まった粘土のように変形が難くなるのではないかと私は考えている。
そして、その固まった粘土をほぐすにも相応の熱と水分が必要になるのだが、そのテコ入れを細やかにしていれば凝固は防げてもテコ入れを施さなかった部分についてはどうだろうか? という話だ。
粘性を失い、固い土壌としてしっかりした固定観念に切創を加えられた時、それを直すのには柔らかくしてほぐさなければならないといえば想像しやすいだろうか。
小さな切り傷がしこりで、粘土が記号化、固定愛の程度ということである。

そしてこれは奇しくも本コミュ中の三峰結華と似た構図であり、彼女自身もまた彼を理解していたと思い込み、彼との恋人ごっこをどこかで楽しみ続けるつもりだったのだが、シャニPの何気ない一言によってそれは瓦解し、傷つき、そして自らの振る舞いがどんなものだったかを悟っている。

彼女は知らぬ内に彼の肖像を記号化していた事と、自分がある種記号化に陥っていた事を理解するのだが、それを再構成するために一度自分の「プロデューサー像」に立ち返っている。
プレイヤーのモノとまったく違う類のモノだと思われた彼女の傷心が、記号化においてもたらされた両者の必然として捉えられるとしたら、これほど妙のある構成はないだろう。

またこの過程において道理を外すような行為などは一切行われていない。傍から見ればこれはただの和解話でしかないからだ。
ただその和解話に強烈なショックを加えただけであり、そこにはプレイヤーや結華の独り相撲によって傷ついた事実しか残っていないのである。
つまり知らず知らずの内に彼女を記号化して愛してしまっていた所に、残酷な話と直面させられた事によって心が傷つけられてしまった、というのが私なりの考察だ。


@機微の観察


こちらでは機微に魅力を感じるタイプについて考察する。長いので以降機微タイプと呼ぶ。

さて、こちらのはいわゆる「真剣な」人々であろう。
記号化とは異なり彼女の行動原理をバラバラに解体することを重視し、彼女がどう考え、何を思い、どう動き、そして何をするか?その全てに理由付けをし、「三峰結華」という人格を探求していく。
記号化をフィギュアを愛すると例えるならば、こちらはプラモデルを作って愛する、みたいな違いがあると思う。キャラを理解し、気持ちを重ねていくことにある種のカタルシスや楽しさを感じるのだ。

だが彼女の難解で一筋縄でない感情の機微と行動原理を理解するのはとても大変で、一回一通りカードのコミュを一周した程度ではまず不可能である。
それでもなお彼女を理解したがるのは先に説明した土台が出来上がってるからに他ならない。または複雑だからこそ取り組みたがる、というのもあるかもしれない。

そんな機微タイプ彼女の振る舞いについて色々思考を重ねたり、または有志の考察文献を読み漁る事で理解を深めていく。彼女の新しい一言一句についてもまた色々な考えを生み出し、落とし込んでいったはずだ。
やがて機微タイプは彼女について思索を重ねる事がちょっとしたルーチンワークになり、次第に彼女に対して同情心みたいなものが芽生えてくる。
それは彼女に対して何か物悲しさを覚えているモノというより、彼女について推し量り解釈を落とし込んでいった事により、彼女の事をまるで他人事のように思えなくなっていった故のモノ、という感じだろう。キャラクターとしての彼女から一人の人間としての彼女へと認識を変遷させている。

そうして一人の人間のように捉えてしまった以上、プレイヤーはもはやキャラをキャラとして切り捨てる事は困難になる。
例えるならば赤の他人から自分の親友になるようなものだ。他人の人生に深く関わった以上、その人の人生に多少なりとも寄り添ってあげたくなってしまうのが人のサガというものだ。
そうなってしまっている時のプレイヤーは、彼女の痛みは自分の痛みであり、彼女の歓喜は自分の歓喜と感じる状態に近い。

ここまで深まった機微タイプは、キャラについて理解を示す時、心理的な面や思考的な面では彼女とほぼ同等になり、また別離の人間として彼女を客観的に見守り考え続けている状態にもなる。
違う言い方をすれば自分に「三峰結華」というもう一つの自分が構築された事に等しいかもしれない。
もちろんそれによって自分の口調や振る舞いが三峰結華になってしまう訳ではないが、内面的に三峰結華にある程度同一性を保ちながら重ねられるという意味では「もう一つの自分」とも言えるだろう。

さて、ここまで説明したのだが、NOT EQUAL以前の三峰結華にはNOT EQUALがNOT EQUAL足り得たとある懸念材料を抱えている。
それは自分がはじめにでも軽く述べていた「淡い恋心」という感情のことだ。

*「淡い恋心」とNOT EQUAL以前

機微タイプを説明すると言った手前で三峰についての考察を交えるのは少々申し訳ないが、NOT EQUALについて詳しく述べる際どうしても避けては通れない部分なので説明させてほしい。

さて、本文において淡い恋心と称するこの感情とは、「三峰結華が恋人ごっこをする際に抱く免罪符」、「恋人ごっこをしても差し支えないと、彼女に高を括らせる動機付けとしての感情」を指している。
ついでに説明すると「恋人ごっこ」とは、「彼女が引いているPラブの予防線に漸近するそのすべての行為と言動、心理作用」を指す。
これをわかりやすく置き換えるとしたら、摩美々のイタズラを「恋人ごっこ」、悪戯心への免罪符とする感情やイタズラをさせるだけの動機付け的な気持ちを「淡い恋心」とするようなものだ。
(これも同様に摩美々のPラブ解釈を推進するわけでなく、あくまで「例え」である)

他には、「凛世がPを慕う気持ち」と「それをぼかしてPに伝える行動」という構図、「夏葉がPを信頼する気持ち」と「それを表す行動や言動」の構図などがこれに類している。
つまりは、「アイドル→P」の構図においてPに漸近する行動や心情といった、アイマス的異性文脈を形容し命名しただけに過ぎず、それがNOT EQUAL以前と以後における対比構造を直感的に理解しやすくするための、いわば恣意的な定義付けである事を了承していただきたい。

というのも、今回の主軸のひとつでもあるNOT EQUAL以前の三峰結華は恋人ごっこの範疇を至って自由に飛び回っていたという印象が強く、持ち前の明るさと時折見せる真剣な部分を見て、それを支え付き合うプロデューサーという比較的Pドルについてポジティブな関係性が押し出されていた。
証拠と呼ぶには図々しいが、この限定が出る直前に行われていたサマーキャンペーンの投票イベントでは一位を取った時のセリフにて、括弧付きで「演じて」はいたものの『大好き』と述べている。

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(こんな結末を後ろに控えさせておきながら、まるで何も分かりませんよとでも言わんばかりにこのセリフを三峰に言わせた運営のゲスさたるや…)

果たしてこのセリフをどう受け取るかはプレイヤー次第だが、少なくともこのセリフを聞いて無下に扱う事はないと思われる。
それに、何も知らぬままにこれを見ても「まあPドルに対して少なからずそういう部分もあるんだろうなあ」という気持ちが助長されたり、Pラブバッチコイな人にとってのとんでもない興奮剤になるだけである。
それもそのはずで、NOT EQUAL以前では三峰がNOT EQUALのような状態に陥るきっかけや予兆といった部分は目立って描かれておらず、恋人ごっこに跳ね回る結華に対して強い杞憂を抱かない限りは三峰結華のPドルポジションをある程度プラスに捉えざるを得ない状況でもあった。

つまり、どんなに考察を重ねた人間とてまだこの時点では淡い恋心や恋人ごっこに恐怖を覚える三峰結華というIFは想像に難いとも言える。
いわばそういう「悲恋」を二次創作的に妄想するならまだしも、公式がその方向に舵を切るというのは予想が付きづらいだろう。
ましてや、「重い」「湿度が高い」などと揶揄される程に、内に抱える思いの丈の重量が高い結華の気持ちを目の当たりにし、そしてそれを噛み砕いている機微タイプは「その感情に応えないというのはある種彼女への裏切りだ」とも感じているのかもしれないし、または彼女への責任感を感じているとも言えるだろう。

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(三峰についてエゴサすると「湿度」という単語はとっても散見される。気になる人は是非やってみよう。)

つまり機微タイプは、3周目のカードが来ると分かっていても、淡い恋心や恋人ごっこの描写への期待は捨てきれず、おきまりの構図の中での話の発展を無意識に予想していたのだ。

さて、話を少し戻そう。

まず、こちらのタイプの愛し方としてはキャラクターについて理解する時、その時々のキャラの内面と自分の内面とをシンクロさせていくというのが基本のスタンスだ。
その理由は大雑把にキャラクターの事を理解したいからという意思が源になっているからだろう。
それが何故かは、キャラクターの事が好きだというのに何も知らないというのではファンの名折れだと思ったり、もしくは単純な好意によってそういう知的欲求が働いているからかもしれない。

なんであっても根本原理としては他人を好んだ時の人間の心理と違いはないだろう。特に我々はプロデューサーであるという旨を受け入れているのだから、知ろうとする事に対して他のものよりも比較的強い責任意識を持っているとも思われる。
また、自分が好きだと思ったアイドルに対して様々な事を理解していくという行為そのものが、自らがプロデューサーであるという前提において一定の正義であるという風にも感じているから、それに従って全うしているとも言えるだろう。

よって、機微タイプはキャラクターの内面を理解する時に自らの内面がキャラと重なる事こそが一種の極限と感じ、またそれに向かって際限なく理解を進めていく、もしくはシミュレートを行なっていく。
だが、キャラクターの内面と同一性を持たせる事がプロデューサーの在り方として全面的に正しいというとそうではなく、それはあくまでそれは第三者視点での、神視点的な意味での正しさに過ぎないものだ。

恐らく機微タイプは、記号化タイプと比べてプロデューサーとしての責任感というものはそれなりに抱いてはいると思うし、だからこそ結華の内面について最大限寄り添おうという意識が働いているのだと思う。
確かに、こういった他人を指導し導いていくという立場において教え子に寄り添うというのは正しい姿勢であると思うし、また教え子の気持ちを理解しなければプロデュースなどどうにもならないというのも正しい論理だ。

だが、Pとアイドルにとって真に必要なのは信頼関係の構築なのであって、その他の関係性は本質的には不必要なのもまた真であると言える。
ドライな見方をすれば、Pとアイドルというのは異性関係ではあるものの、業務的には単なるビジネスパートナーであるということだ。
シャニマスでその例を挙げるならば、P夏葉の関係がそれの理想形に近いかもしれない。

更に加えれば、アイドルという職業の性質上未成年を相手にする事が殆どであるからビジネスパートナーを超えている関係というのは倫理的にはあまり推奨された関係ではあらず、それが未成年でなくても多数の人間の感情を奮起させていく事を生業としている以上、一対多という核心的な相互関係に水を差してしまうような事案の発生など軽々しくあってはならないというのが一般的な考えとなる。

しかしそれがP夏葉ならともかく、P結華においてその基軸を真面目に捉えるのはややナンセンスな思考だろうという前提を機微タイプは抱いていたはずだ。
少なくともNOT EQUAL以前のコミュでそこの部分をある程度曲げ伸ばして寄ったり引いたりしていた以上、そのようなPドル基軸の下で彼女らの関係性を厳格に正さねばならないという気持ちに意識を向けるのは多少厳しいものがある。

良くも悪くもキャラの理解を深めていく、キャラに寄り添うという行為に対して疑問も抱かず無作為になっているので、それが例え結華の「かもしれない」行動や感情であっても、程度の軽重に関わらずインセンティブとして捉えてはそれを肯定していたと思う。
例えばそれは「Pの信念に対する信頼を基にした冗句や冗談」だったり、「Pへの純真な感情」といった肯定だろうか。
しかし、プレイヤーがどれだけその肯定を大事にしようがしまいがシャニマスではそういったインセンティブを描けどプロデューサーとしてのソリッドな姿勢を崩して描く事はほぼない。
これは先程も言ったことであり、いわばシャニマスの物語におけるプロデューサーの頑とした「予防線」でもある。

なのでライターもそこの部分に対する明確な「YES」を決して出さず、あるいは事象を操作したり、あるいはPを単なる朴念仁にしたりすることで、ぼかしたり一線を引き続ける。
これは三峰に限らずどのキャラにも当てはまる共通項だ。

そしてそれを裏付けるかのように、プロデューサーと三峰とのお話においてシャニマスPは結華の淡い恋心へ正式に応えるような行動や言動を全然しないのだ。

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(【それなら目をつぶりましょう】にて。
店員にカップルと間違えられた際にそのままカップルの体を装う起点によって危機を乗り越えた後の二人の場面。
三峰はその起点を『日頃のシミュレーションの賜物』と自賛するが、プロデューサーはそれを冗談と捉えている。
三峰の恋人ごっこ(今回は無作為なものだが)と淡い恋心に関するやや恣意的なエピソードであるが、このときにおいてもPは一貫して結華の技術と信念を褒め讃え、『シミュレーション』に関わる部分に触れてはいない)

他にもこのような淡い恋心と恋人ごっこの構図は散見される。
似たようなもので、NOT EQUAL以前以後を見比べるのならば、バレンタインチョコの例はわかりやすいだろう。

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(2019年のバレンタインチョコ。こちらはNOT EQUAL以前)

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(2020年のバレンタインチョコ。こちらはNOT EQUAL以後)


以上を踏まえれば、彼女の淡い恋心に寄り添おうとした場合の機微タイプは本カードに向き合うにあたってとんでもない地雷行為になってしまっていた、人参を目の前にぶら下げながら崖に向かって走る馬と化してしまったのだ。

傷ついた詳細

さて、ここからいよいよ本コミュになぞらえて考察を連ねていく。

まず、1、2話目だが、こちらは先にも言った通り、「結華が傷つく」→「結華と呼ばないでと釘を刺す」という流れであり、三峰は傷ついた理由とその原因を一貫して自分のせいであるとここで説明している。
そして、3話目の[雨の中、(二度目の)正解をくれた]において、自分を探してくれたプロデューサーにその行為の理由を問うたが、プロデューサーは「そんなの決まってる。結華のプロデューサーだからだ」と発言する。ここで結華は「正解」を発見し、4話目において、結華は「通常営業」を行う。
4話目でのプロデューサーは、結華の葛藤について詳しく存ぜぬ、といった様子だ。

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見てもらえばある程度分かるように、NOT EQUALではこれまでのカードと打って変わってドライな雰囲気で話が進むものの、プロデューサーの姿勢や態度はいつもと変わらず、変わったのは結華の雰囲気のみとなっている。

そして、このカードの内容が意図するところは今までの関係性を否定するといったもので、それは(これは一種の自己解釈だが)「もしかしたら自分の恋人ごっこは過ぎていたのかもしれない」「淡い恋心が思っているよりも肥大化していたのかもしれない」という否定的な自己反省を肯定することである。

それはいうなれば「築かれたユートピアの瓦解」であり、機微タイプは難解なこのお話を起点に再度彼女を掘り下げる時に彼女の恋人ごっこや淡い恋心に従する笑止千万な数々の振る舞いを目の当たりにしていくという叫びたくなるような過程を辿ってしまう。

また、3話目で判明する「正解」の真実とは、「プロデューサーはプロデューサーとして全うしている」ということへの納得と再認識であり、それは始めのコミュや二番目のコミュで投げかけられていた疑惑を、もしくは淡い恋心や恋人ごっこへの懐疑心を確信に変えるものでもある。
いわばいままでのおきまりを「間違い」として決定することでもあり、その真実が「結華の内面へと寄り添わねば」というプレイヤーの責任感を鋭利な凶器となって心に突き立てられてしまう。

つまりこの3話目以降において、今後の三峰結華とプロデューサーとのPドルという関係は師弟関係やビジネスパートナーとして新たに刷新された、もしくはブラッシュアップされたと示されてしまい、そしてそれを受け入れた結華は4話目スカイツリーにて「アイドル」である事をプロデューサーの目前で誓約し、trueコミュや駆け寄ったファンの少女の質問に三峰結華はあくまで彼のビジネスパートナーであると応えるのだ。

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これはプレイヤーが期待していたような淡い恋心と恋人ごっこの構図の破綻でもあり、(執筆当時はまだ4周目の三峰結華PSSRのお話を見ていないので断言は出来ないが)これ以降何かターニングポイントとなるお話が描かれない限り三峰結華が恋人ごっこの範疇をせわしく動き回ったり、淡い恋心を押し出すことはあまりしなくなるだろうというのは容易に想像が付くだろう。

淡い恋心と恋人ごっこの構図が、記号化のものと異なる別種のしこりとなるのだ。

いつもはPに感情を押し付ける結華が自分に向かって感情を押し付ける様をまじまじと見せられたプレイヤーは、彼女の内面とシンクロしているが故に、彼女の自傷が自分の傷となってダメージを重ねてしまう。
結華に対し寄り添うという態度で挑む機微タイプが結華の心情の理解不理解という段階に関わらず傷つけられる皮肉な状況が作り上げられているのだ。

もう少し一般的に考察をするならば、彼女の傷心の原因の解釈自体は各々が抱く三峰結華像によって異なるものの、三峰結華への盲目的な愛を抱いているという土台が出来ている人は、彼女の傷心のトリガーを無意識に捜索し、その銃口が自分に向けられているにも関わらず、発見次第プルダウンを行うとも言える。
この自害のプロセスは機微タイプの、「理解しようとする思考」のルーチンワークによって行われる為、自分の意思との合意に関わらず実行されてしまう
いわばプログラムに沿って行われる自動化された必然なのだ。

このお話を読んだあとのプレイヤーの予想と三峰結華の心理を揶揄するならば、「プレイヤーと結華は両思いであるのに失恋した」とでもいえるだろうか。
つまり、今までのPドルを望んでいたプレイヤーと三峰結華とのコンセンサスに切り込みを入れられた。等号に切り込みを入れられたようなものだといえるだろう。

蓋を開ければ当然のロジックで行われた戯曲であるのだが、いままでのようなフランクなやり取りと彼女の詰め寄りを望んでいたプレイヤーは、その等号に切り込みを入れられてしまった事に動揺を隠せなかったはずだ。
ライターは、「結華らしくなさ」を徹底的に描くことで関係性の転回を行うという誰もが予想し難い方向性で話を描いた上で、明確にシリアスへ吹っ切れた。
そんな話を描けば誰だってしんどくなるだろうし、特にキャラクターにずっと入れ込んできた機微タイプにおいてそのダメージは容易に察せる。

これら数々の考察が、自分はNOT EQUALで傷ついた理由として考えたものである。


NOT EQUALの個人的考察と感想

一段落ついたので、NOT EQUALについて個人的に色々言おうと思います。

NOT≠EQUALは、その情緒的なシナリオと叙情的な演出により様々な解釈を呼んだコミュですが、その解釈は大きく「Pラブか」「Pラブでないか」を基軸に分かれていると思われます。
ですが、先日の電撃インタビューにて、「NOT EQUALは失恋を意図して描いてない」という発表もあり、後者のほうが今後はメジャーになるのかなと思います。

個人的な解釈で言えば、NOT EQUALのお話で結華は自分の中でのPの肖像がいつの間にか歪曲されていたことに気づいたのでもう一回立ち返ったと考えていて、その歪曲された原因については淡い恋心の肥大化と思っています。
もし淡い恋心というワードが気に入らない人に具体的な説明をするならば、「自分のイタズラがただのイジメとして悪意化していたのかもしれないと、摩美々が杞憂を抱いて反省したお話」というような感じでしょうか。
(まあこれはただの置き換え話ですが)

なので自分は淡い恋心とか恋人ごっこの部分を摩美々と同じような彼女なりのイタズラだと思っていて、それをプロデューサーに仕掛けるのも彼女が「プロデューサーなら大丈夫だ」と信頼しているからやっているんだと思っています。

実際、摩美々と三峰は比べてみると結構対比されているなと感じる部分があり、ファッションもそうですが、プロデューサーが駆け寄って「プロデューサーとして心配した」という場面においても摩美々と三峰は状況と展開が180度違っているなど、案外コインの裏表なのかもしれない、面白いなあと感じます。

余談はさておき、つまりこのお話はそのイタズラの部分に杞憂を抱いた時の彼女の揺れ動きを描き、結果的に元鞘に戻ったお話だと捉えているわけです。そしてそれを踏まえている今、果たして今後PSSRで彼女はどう描かれるのか、NOT EQUALを経た彼女とプロデューサーの関係はどうなるのか、とても気になって仕方ないですね。

(解釈は別に、個人的にはPラブの方向性から見るNOT EQUALのほうが苦しくなれるのですきです)


運営の意図とは?


ここまで長く説明を重ねてきたわけだが、要は我々は傷つかされたのであって、それに納得するにしろ怒りを感じるにしろ、「こういうことも行うよ」という示しが運営によってなされたことは紛れもない事実である。

だが、一プレイヤーとしてはこの一連の意図に運営の純粋な悪意を感じてはいないし、むしろキャラのことを緻密に練り上げているからこそ出来た超絶技巧と愛を感じた。

おそらくこんなコミュを描いたのも、単にプレイヤーを傷つけたいというよりかは、シャイニーカラーズのテーマである『はばたく』というものに則りたかったのだろうと思っている。
そして、このはばたくという事には、テーマとして掲げるだけあって大きく二つの意味が込められていると私は思っているが、まずはアイドルとして有名になっていくことだ。まあこれは無論だろう。私が述べたいのは次のもう一つの方である。

それは各々のキャラクターの心が成長していくことだ。

まず、シャイニーカラーズの特徴として非常にコミュの質が高い事が挙げられる。似たプラットフォームであるミリシタやデレステのものからは逸したクオリティを発揮している。現行サービスが行われている同業他社の中では群を抜いていると言ってもいい。
それは他社と比べて3Dモデルという分かりやすい魅力が予め削られてしまっている事、音ゲーというプレイ感を覚えさせるようなゲーム的魅力をも放棄している事などを考えればそれは妥当な強みであると言えるし、また自分の命運を握る手綱のようなものでもあるだろう。

なので、シャイニーカラーズはその洗練されたヴィジュアルや雰囲気とは裏腹に、かなり踏み込んだテーマ、シリアスな話題をしばしば取り入れ、差異を作っている。
直近で言えばStar’n dew by meなんかはかなり顕著だ。学園祭に招待されたイルミネーションスターズが鬼ごっこを行いながら学園祭を盛り上げるというお話なのだが、それは、緊急ライブを校庭で行った後、後夜祭の熱に浮かれる生徒達の姿を見て3人が達成感を感じる中、灯織と真乃がめぐるのことを「特別なめぐるではなく、一人の人間としてのめぐるが好きだ」と告げて終わりとなる。

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(Star`n dew by me[呼吸のソルフェージュ]にて)

これだけ聞くとなんて事ない「良い話」なのだが、実はかなりシリアスなテーマをイベント中に描写しているのだ。
そのテーマを大きく扱った時のコミュ名は、F.ニーチェの一節から引用された「invent laughter」というもの。

孤独な人間がよく笑う理由を、たぶん私はもっともよく知っている。孤独な人はあまりに深く苦しんだために笑いを発明しなくてはならなかったのだ。
Perhaps I know best why it is man alone who laughs; he alone suffers so deeply that he had to invent laughter.                                        

Friedrich Nietzsche (フリードリヒ・ニーチェ )                

という言説の一部から来ている。

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(star`n dew by me コミュ[invent laughter]にて)

これは天真爛漫でおしゃべり好きな友達の多い八宮めぐるのスター性は孤独という状況下で養われた努力の賜物である事の示唆といっても差し支えないだろう。
そしてその孤独な過去を裏付けるのは、【チエルアルコは流星の】の水槽に一匹漂う熱帯魚に語りかけためぐるの様子と、イベントコミュでの真乃と灯織による「特別なめぐるではなく、一人の人間としてのめぐるが好き」という発言に涙を流しためぐるの歓喜だ。

更に、【チエルアルコは流星の】にはめぐるがハーフである事で浮いてしまっていた事の隠喩さえ含まれている。
これらを踏まえると、めぐるにはハーフというマイノリティな属性によって心理的なゾーニングを感じ、それによって孤独に苛まれた過去があるという冷酷な現実をめぐるは経験したとも解釈出来よう。

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(【チエルアルコは流星の】[同調の水、されど]にて)

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(【チエルアルコは流星の】[異邦の青、浮遊する]にて。
コミュ名もさながら、内容も大正時代にやってきたブルーアイの少女という役柄に対して同情するめぐるという、やはりハーフ属性によるゾーニングを思わせるようなものになっている)

仮にハーフの部分が怪しいと思っても、孤独という彼女の今を知る人にとって対極な境遇をめぐるが経験した事はほぼ確実と言っていい。

中々シリアスなテーマで少女の戯れに興じるゲームにしては些か現実的過ぎるが、ここに辿り着くにはそこそこの考察を要し、またイベントコミュ内でもかなり間接的に描写しているので、実際のゲームで心を身構えて望んでも少し拍子抜けしてしまう程度には何気ない雰囲気を保っている。そこのバランスの取り方は実に絶妙だ。

このめぐるの例に限らず、シャニマスでは他のアイドルにもこういった昏い部分を匂わせるような描写を色々描いている。詳しく挙げるのは憚られるので人数だけ言うが、個人的に見た限りでは大体10人かそこらのアイドルでそういった描写が描かれている。まあほぼ全員といってもいいだろう。
その描写の絶対数は少ないものの、しかし明らかにその重い部分というのは意図されたものだ。

そしてそのそれぞれのシリアスなテーマには全ておおまかに「心の未熟さ」という箇所にスポットが当てられていると感じる。
未熟、というのは様々な意味を込めた表現なのだが、例えばそれには、未発達であったり、未経験であったり、未到達、あるいは技術不足といったものなど、本当に様々な意味を込めている。
技術不足とは、例えば何を妥協し、何を割り切り、何に見切りを付けるかといった取捨選択的な感情操作が未完全だ、という意味で言っている。
抽象的な話題故にピンとこない人は多いだろうが、薄桃色にこんがらがってではこの部分に強くスポットが当てられていたと思う。

そしてここでもう一度私が言いたいのは、この少女達にはそれぞれ心理的な部分・社会的な部分で未だ大人になり切れてない所を持ち合わせており、彼女達はアイドルになって様々な人と触れ合っていく過程でその弱みを克服していくという事こそがシャイニーカラーズが掲げる「はばたき」というテーマのもう一つの意味なのではないか?という事だ。例えるならマージナルマンからの脱却のようなものだろうか。
思春期、青年期からの移ろいを細やかに描くことを「はばたき」と形容し描いていると、強く感じるのだ。

実際、私の担当である灯織を例に挙げればその脱却というのは非常に著しいだろう。
彼女は去年ではまだ不用意な発言で他人とのコミュニケーションを滞らせ、また自分もそれに猛省して塞ぎ込んでしまうという本当にぎこちない人間だったというのに、今ではそういった発言や態度を取る回数は激減し、むしろ他人との距離感を上手く調節し、場の雰囲気を維持する事に徹して自分を操る事さえある。また彼女自信が内側に秘めていた人間としての長所を発揮する場面さえ度々見られるようになってきた。

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(初期の灯織と今年出た【星合アステリズム】における灯織)

まためぐるの例示においても、イベントでイルミネメンバーから自分の存在を再認可される事でやっと孤独だった事へのコンプレックスや密かに感じ続けていた孤独への恐怖から解放されたのだと思う。

これらを「はばたき」と言わずしてなんと言うだろうか?
この成長の流れは、アイドルとして大きくなるというものに比べて目に見えたものではないのでこちらから注意しなければ気付きづらいものではあるが、だが確かに意図して描かれている。

だがその「成長」とはどういうものを指しているのか?

それはキャラ毎に異なるだろうし、一体どういう風に成長するのかも今後の展開を見届けなければ分からない。
しかし、長い目でみればこの心の成長というテーマを扱うのはエンドコンテンツともいえるソーシャルゲームとの相性は抜群であり、またコンテンツとしても深みを持たせるに足る重厚なテーマだろう。
ある意味、「ギャルゲー」らしからぬ初期のアイマスへの原点回帰ともとれるテーマの重さだ。
つまり、NOT≠EQUALにて恋人ごっこからの脱却を描いたのは、それが結華の心の成長であり、それは我々と結華双方に痛みを伴うものだったということ。

そしてその成長過程を描くこととは運営の意図する所であり、シャイニーカラーズという作品を象る重要なテーマであるはばたきに則ったのではないか、というのが自分の意見だ。


おわりに


ここまで読んでいただいた方はありがとうございます。私の稚拙な考察と文章に頭を抱える事も多々あったと思いますが、それでもなお読んでくださったという事は貴方がそれだけ三峰結華というアイドルやシャイニーカラーズというコンテンツに本気である事の現れなのだと感じます。

本文は以前書いたものから大幅な推敲をして再公開したもので、以前より文量を減らしたり言い回しを変えたりして多少読みやすくしたつもりです。
推敲した理由については、ちょっとPラブ解釈に寄りすぎていたというのと、電撃のインタビュー記事でNOT EQUALについての見解も示されたこともあり、適宜修正を加えたくなったという感じです。

それと、この怪文書ではいろいろとごちゃごちゃ偉そうな事を言ってますが多分この内容に全く当てはまらない人も全然居るだろうと思っています。
というのも、NOT≠EQUALは色々としんどい物語ではあるんですが、「どこらへんにしんどくなったんだろう?」という部分に目を向けてそれを説明するとなった時、やっぱり観念的な考察に歩まざるを得ず、話題としても抽象的ですので全てをさらうには厳しかったというのが本音です。
それに、ここで取り上げた話題もしんどくなった数ある原因の中で考え得る要素を取り出したに過ぎないということもあり、こんだけ読んでも消化不良になるかもしれない可能性があるので、そこに関しては普通に申し訳ないと思ってます。

この考察のテーマや内容は、あたかも私がプロデューサーとしての在り方に一石を投じてやるだとか、運営の技巧に万雷の拍手を送りたいといった意図を感じさせてしまうのかもしれません。
ぶっちゃけこのような素晴らしいコミュを書き下ろして下さったライターさんに頭が上がらないというのは事実ですが、私としてはあくまで三峰結華やシャイニーカラーズというコンテンツに対して真剣に向き合った事への結実・極限点として書いた次第です。
なので何か不満を覚えても、一限界オタクの世迷い言だと思って受け流してください。


P.S.
透のAランクボイスめっちゃすき


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