私は愚か者 ~スマホ社会と視座とリングワンデルング~

  「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
 ビスマルクの言葉にこういうものがある。
 二元論的に愚者か賢者かで言うと、私は圧倒的愚者側の人間だ。

 昔からそうだった。見えない未来に対する想像力だけが勝手に働いて、結局そこから何も学ばないタイプの人間であり、かつ経験を頼りにすることしかできないタイプの人間だ。

 先日とある方と通話した。名前は伏せるが、その方はフリーランスとして働いている方で、ビジネスのことを教えるマーケティングのようなこともやっている方だ。

 その方と副業について話していたのだが、その方が言うには「目標があいまいなままに副業に手を出すと続かない」という言葉をいただいて、「確かにそうだ」と腑に落ちた。

 しかし、「目標なんてあるだろうか?」そう自問自答したときにパッとした答えが思い浮かばないのだ。

 北大に合格はしたものの、それは結局「私大に入って費用的な迷惑をかけたくない」のと「北大ってかっこよくない?」というニュアンスだけで勉強しただけであり、それ以降の目標はなまじ存在しなかった。

 吹奏楽を始めたきっかけは「音楽が好き」というポジティブであいまいな理由と「合唱部はトレーニングがつらいらしい」というネガティブで信用に欠ける理由で始めた。

 そして現在はどうだ。スマホを手に入れた私は、特に目標もなく、視座も見えないまま、自己理解を捨ててスマホをいじるのに邁進しているではないか。
 大学院生という時間があることに感けて何もしない典型例をたどっている。

 だからといって、これと言って「これがしたいです!」みたいなものは今存在しない。ブログも書いているし、ゲーム配信のための環境をより整えたいが、それ以外に必要なものは見当たらない。

 頭の中では副業するメリットをわかっているものの、それをして何がしたいかは副業でも勉強でも吹奏楽でもスマホいじりですらも存在しないわけだ。

 このままの考えではこの社会がとても生きづらいことはわかっている。資本主義の世界では、実力のあるものや志が高い人にとってはイージーゲームであり、そうでなく特に目標もない浮浪人のような人は相対的に無理ゲーを強いられることになる。

 本当は目標なんてないまま生きていても問題ないのかもしれない。一生社会の犬として働いていればいいのかもしれない。しかし、人生100年と言われる昨今、年金がなくなるかもしれない問題、大企業でも倒産する恐れがある問題などリスクが色々考えられる。変化が激しい現代では、それ以上のリスクがいつ降りかかってもおかしくはない。

 しかしお金の問題を考えれば考えるほど利己的になってしまう。自分のやりたいことを度外視してしまう。それは目先のことしか考えていないことの象徴である。

 そんな先が見えない霧の中で、私は方向が見えないことを自覚せずに千鳥足であるがまま歩いているのである。まさにリングワンデルング。

 もはやプライドやら感情みたいなものを一度捨てるしかすべはないのかもしれない。そもそもこうやって将来に悩んでいること自体が無意味なのかもしれない。だからこそ、悩むことに時間を割かずに、他人への、そして自分へのメリットを度外視して「これだ!」と思ったものに飛びついていくしかないものか。

 そして愚者らしくその経験から学んでいくしかない。

 それが視座がない者の最適な生き方かもしれない。

 自分が不器用であることを認めて、生きづらさよりも良い感情の揺さぶりを大事にしていきたい。

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