失って敗ける

自死という言葉を聞いたことがあるだろうか

もとをただせば自殺という言葉の世俗的にはびこるマイナスな印象を払拭すべく産み出された言葉であるらしい。

僕からしたら自殺と自死には大きなイメージの差があったがそれについて書いていきたい。

僕の中で自殺とは本当は生きたいがやむを得なく死ぬことを選ばなければならない人の死であり、自死とは他に抵抗する手段が残されていながらも敢えて死を選び行動することを言うと考えている。現在の日本では尊厳死というものを認めていないためこれを迎えるための最後の抵抗がこれに当たるのではと個人的には考えている。

僕には選択肢があると信じたかった。

そして信じたからこそ、もうすべてをお仕舞いにすべく昼下がりに電車ホームへと足を運んだ。

気持ちを決めたというのに場所には先頭車両近辺を選んでしまった、心の弱さがここにまで出てしまっている。まぁ通過するわけだし変わらないかなどと意味のない独り言が口に出ているかわからないくらい頭のなかを回る。

電車がホームを通過しますとのアナウンス、幼少期の学芸会の舞台袖での気持ちに近いものを覚えながら電車を待った。そしてその時がきた。

ホームから体が動かなくなった。

その瞬間、足は根を張り額からは冬にも関わらず異常な量の汗ともいえない液体が流れその場で身動きがとれなくなった。端から見たら異常者だったに違いない、後ろにいたサラリーマンの顔を僕は忘れないだろう。

そんなサラリーマンを僕は見送り、次こそはと時刻表を見上げる。

5分後に次の通過電車が来る。

今度こそはと思い、軽く手足を伸ばし身体の硬直に備えた。出来れば人がいない方がいいななど考えていたら不思議と人も来ず、環境としては最高の仕上がりとなった。

電車がくる。

先ほどのサラリーマンの顔が憎たらしいほど頭をよぎる。よく言う話で家族や恋人の顔が出ると言うが嘘ではないか。

焦りと怒りからか電車が駅構内に入った瞬間に降りてしまった。

人生いつもこうだ、肝心のところで決めきれない。

受験であっても就職であっても先走りからのミスというところはかわらない。

ただ緊急停止の音が鳴り響いていても電車は止まれない。僕に向かってただ真っ直ぐにやってくる。

僕は自らこれを選んだのだからこれを受け入れる、そう思っていた。

次の瞬間、身体は駅の構内から走り抜けようと千切れんばかりの勢いで線路を走っていた。

足掻いてしまったのだ。

この瞬間に走馬灯というものは見ずに、ただ時間が数十倍の遅さで流れることだけは感じとることができた。走ったのは距離にして15m前後時間にしてしまえば4,5秒だったが数十秒走っているような感覚だ。

僕は自ら死という手段を敢えて選んで死ぬはずだったのにそれすら選べず、目の前の脅威からいつものように逃避することを選んだのだ。

結果多くの人間に迷惑を与え時間を使わせるだけに終わってしまった。

こんなに惨めな日はない。

きっと走っている瞬間の僕はこの世で最も情けない顔であったろうし、このような機会を受け入れていった先人達にも顔向けできやしない。

このようなことは世間では自殺未遂はたまた、迷惑な人間という。

僕も順風満帆に生きていた頃には、このような人間を馬鹿にしていたし死ねもしないならひきこもっていろとさえ思っていた。

忙しい往来のない時間を選んだつもりではあったが、それでも人様の生きる時間はあるもので大きな迷惑をかけてしまった。

僕は自ら旅立つことを選べた先人達にも続くことができず、もう人様と同じ日を浴びて生きていくこともできないのです。

この身分を表すこともできません。

故人にもなれず人間にもなれやしない、孤独感だけが残る何かになってしまったのです。

この孤独感を共有できる人間はまた人間ではないのでこれは一生抱えなければならないものなのかと自問自答し寝床につきます。

寝床があるだけまし、などとも言われかねないが、手段やものがあってもなお足りない何かが心の奥に根を張ってしまうと致し方ないものなのです。

こんな惨めな夜にnoteを教えてくれた友人にありがとう。

心が健やかになるまでしばらく投稿を続けようと思います

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?