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2020年1月京都旅行 蹴上インクライン その2

その1のつづきです。

「蹴上インクライン」のことはあまりよく分かっていなかったのですが、ここにある水力発電がかなり早くに作られて使用され続けてきたということを知って興味をもったのでいろいろと見学してきました。 というか、どちらかといえばこちらの関連の方が主目的でした。 

このnoteに張り付けている写真の銅像は「蹴上インクライン」や水力発電を含む琵琶湖疎水の工事全体を指揮した田辺朔朗氏のものです。 

田辺朔朗氏と一緒に工事を推進した当事の北垣国道京都府知事が自分の田舎(豊岡市)のとなり町(養父市)の出身というのも自分の興味を引く話だったので実際ここを訪れてみたくなり足を運んでみました。 想像していたよりかなりビッグな知事だったようです(←京都旅行後さらにいろいろ調べて)。

ではまずその田辺朔朗銅像の写真を貼り付けてみます。

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さらに田辺朔朗銅像ちょいズーム版。

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琵琶湖疏水についての説明をしていた立て看板があったのでパシャリ。

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文面を抜き出してみます。

史跡
琵琶湖疏水
 明治2年に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって、第3代京都府知事北垣国道は、京都に近く水量豊かな琵琶湖に着目し、
疎水を開削することにより、琵琶湖と宇治川を結ぶ船運を開き、同時に水力、灌漑、防火などに利用して京都の産業振興を図ろうとしました。この
疎水工事の御用係に選ばれたのが、明治16年工部大学を卒業したばかりの田辺朔郎でした。
 工事は最も難関が予想された第1隧道(トンネル)から取りかかることになり、施工方法についても東西両口からの掘削の他、わが国初の試みとして
途中に竪抗方式も採用しています。
 ここのインクライン(傾斜鉄道)はわが国初めての試みで、これによって船を南禅寺の平地に下ろし、舟溜から鴨川までを鴨東運河で結んでいます。
 明治24年には米国コロラド州アスペンの水力発電所を参考にした日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月に送電を開始しています。インクラインの運転動力もこの電力を利用しています。
 水力発電は新しい産業の振興に絶大な能力を発揮し、京都市発展の一大原動力となりました。
 疎水工事は、明治18年6月に着工して以来、数々の困難を乗り越えて同23年3月に大津から鴨川落合まで完成し、それより以南は明治25年11月に着工し、明治27年9月に完成しました。
 琵琶湖疏水は、当事我が国の重大な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみの手によって行った最初の近代的大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、平成8年6月にこのインクラインをはじめ12箇所が国の史跡に指定されています。
 この疎水の水は、現在においても水道用水の他、発電、防火、工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っております。

ちなみに、今↑この文章を抜き出していて、やっと明確に「インクライン=傾斜鉄道」と認識しました。 ああ、あの歩いてきた線路ことか~、と今更ながらの認識でした。 「日本初の(営業用?)水力発電」とか、「スーパー技術者田辺朔朗」とか、「但馬出身の北垣国道知事」とか、他の部分に意識向きすぎていたのかも。。。 

で、次は銅像のすぐそばにあった田辺朔朗の顕彰碑もパシャリ。

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こちらの文面も抜き出してみます。 画像では句読点がはっきり見えなかったのでそのへんは適当に打ちつつ抜き出してみます。

 田辺朔朗は文久元年(1861年)江戸に生れる。 明治十五年(1882年)工部大学校学生であった田辺は、京都の衰微を回復するため琵琶湖疎水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に会い、請われて翌年京都府に着任し、財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け、明治十八年(1885年)起工後は設計・施行の総責任者となる。 当時はほとんど機械・資材とてなく、いわば人力のみに頼る長さ二四三六米(2436メートル?)の長等山トンネルの工事は困難を極めたが、卓抜な技術と強い信念、不屈の精神力によりこれを克服した。 また優れた先見性により、世界で二番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し、産業動力源とするとともにわが国初の路面電車を京都に走らせた明治二十三年(1890年)四月、晴れの通水式を迎えた田辺朔朗は二十八才であった。
 わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に近代都市京都の基礎をつくった恩人田辺朔朗の像を建てここに顕彰する。
京都市

水力発電の設備の写真も撮ってみました。 貼り付けてみます。 まだ現役のようです。

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田舎(豊岡市)ととなり町(養父市)を含む但馬地方に住んでいた頃は、北垣国道のことほぼ聞いたことなかった気がするけど今もそんな感じなんだろうか? 今のようなネット情報が無ければ知ることも無かった気がする。 北垣国道の先生だった池田草庵は但馬聖人という触れ込みでよく田舎で宣伝されてたけど。

まぁでも京都旅行前後の検索・調査で、住んでいた頃より自分の田舎にもいろいろ興味もてるようになったので、さらにいろいろ調べるきっかけになりそうです。  

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