見出し画像

命は突然終わってしまう――、という現実に立ち止まるのは日々のニュースの中で見ず知らずの誰かが亡くなった時ではない。実際に喋って、笑って、思い出を作った誰かがいなくなった時だ。

数日前、30代の頃に懇意にしていた男性がコロナで亡くなったと聞いた。まだ50代だ。

彼とは、同じ業種の同じ役職同士で集まる『会』で出会ったのだが、月いちの会議と、年いちの泊りがけでの忘年会、というスタイルでのつきあいを割と長く続けていた。私は仕事を辞めたので途中で会を離脱したけれど、彼の様子は風の噂程度だったが定期的に耳に入ってきていた。元気にしている、ということが分かるだけで十分だった。

30代の頃、彼はよく言っていた。
「自分が長生きする姿が想像できない」

そのせいかどうか結婚にも子供にもまったく興味がなかった。ただ、彼をとても愛してくれる女性と巡り合ったようで籍は入れた。残念なことに主義は曲げず、子供は作らなかったけれど。

「50代以降、自分が生きているとは思えない」

どこまで本気だったのかわからない。
けれど彼は、自分の吐き出し続けた言葉の通り、50代で逝った。


コーチングなどでは、『口から出す言葉は大切だ』と教える。吐き出した瞬間、脳はその言葉を叶えるためのサーチを始めるから。それが負であっても、脳には区別がつかない。だから心にもないことは口にしないほうがいい。――図らずも、そのことを思い出した。

自分が自分に掛ける暗示というものもある。

彼の場合は、どちらだったのだろう。たぶん、どちらも作用したんだと思う。


人の死に触れると、“置いていかれた”という気持ちになるのはどうしてだろう。
寂しいなあ、と思っても伝えるすべがない。取り出した思い出もしかり。永遠に、一方通行だ。しかも、人の死をいくつ経験したからといって慣れることも、心を強くすることもできない。正直、しんどい。
でもそれも、その人が生きていたということを胸に刻む大切な儀式だと思うからやり抜くしかない。辛くても、寂しくても。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?