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パイの取り分

 誰かから聞いたか、あるいは本で読んだか。 出所はもう忘れてしまった。しかし私の頭の中には、かなりの昔から 『パイの取り分は皆同じ』 という確固たる思想がある。半世紀に及ぶ人生においてそれは旗幟鮮明であり、 疑いようのない真理、と言ってもいい。

 ここに一枚の大きなパイがあると思っていただきたい(そう、私の中ではピザでも お好み焼きでもなく、パイ。アメリカンなオカンが焼くような)。 集まった人数分、8等分でも12等分でも、とにかく切り分けられ、そしてめいめいに配られる。 おお美味しそう。だがふと横を見ると、何となく自分の一切れよりあっちの一切れの方が大きい気がしてしまう。 向かいを見ると、ちょっとちょっと、なんかチェリーいっぱい乗ってる!切り方不公平じゃない? と、隣の芝生ならぬパイが羨ましくてしょうがない。 等分に、って簡単に言うけど実はなかなか難しい。パイならね。

 これが『幸福』となると、一生を通してみんなだいたい一緒ですよという話。 待てよそんなはずない、大富豪の家に生まれた者と、ずーっと苦労してる貧しい家に生まれた者とじゃあ幸福度が一緒な訳ないだろう、という人もいるかも知れない。 でも私は少々の誤差こそあれ、大筋でこの考え方は間違っていないと考えている。なぜなら自身の周りでその事実を今まで何回となく見てきたからだ。 
 ある程度長く生きていると、物事の成り立ちや道理が分かったような気になって来る。本当は「分かった」のではなく、ただ経験値が増えただけなのだろう。しかしたかだか経験値と言えど、これが余りにも繰り返されるとなるとこちらとしても確信に変えざるを得ない。
 身近な人々がパイの大きさや手に入れた時期などを他人と比べて一喜一憂する様を見てきた。他人と比べ過ぎて逆にそこそこの人生になってしまった人。幼少の頃苦労をしたが後半で大きな一切れを手にした人。傍若無人にふるまっていた人はその分きっちり報いを受けていた。私ももちろん若い頃は、行くべき道を右往左往したかも知れない。ただ、一生を通じてみんな似たり寄ったりなんだろうな、という考えがずっと頭の片隅にあり、周りほどそのしがらみに巻き込まれずに済んだように思う。

 神童の名を欲しいままにしながらも35歳の若さでこの世を去り最後は共同墓地に葬られたモーツァルト。 鳴かず飛ばずの作家人生だったが60代にして後世に残る超ヒット作を生み出したやなせたかし。 自身の苦悩が滲む独特のタッチで画家を続けるも生前の生活は豊かでなかったゴッホ。後世の評価は周知のとおり。

 もちろん色んな人生がある。一律に寸分違わず同じ、とはさすがに言わない。しかしピークの時期や長短に多少の違いこそあれ、その幸福の取り分は本当に似たり寄ったり。永遠に続く最高もなければ、永遠に続く最低もあり得ない訳で。
 毎日びっくりするようなニュースも耳にするけれど、幸福の取り分は一緒と考えると、 お天道様に恥じない生き方をしていれば、チェリーはまんべんなくパイの上に並ぶに違いない。


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