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働き者で大金を稼いだ朝鮮人慰安婦・文玉珠(ムン・オクチュ)

文玉珠(ムン・オクチュ)の証言も、実にコロコロ変わりました。
ただ、彼女は慰安婦業で大金を稼いだのは事実だと認めており、実際に自らの預金を取り戻すために裁判の証拠として『原簿預払金調書』を提出しています。


※注
現在、テリマカシさん(https://twitter.com/terimakasih0001) のアカウントはTwitter社から理不尽なペナルティを受けており、画像付きのTweetが表示されにくくなっていますので、スクリーンショット画像を添付させていただいております。


その預金内容は驚くべきもので、彼女がいかに高額収入を得ていたのかがわかります。

この当時の慰安婦の大半は軍直轄ではなく、『売春宿のオーナーに雇われた戦時売春婦』であって、通常、彼女を管理していたのは管理者かオーナーで、彼女らはその売春婦のオーナーに一定割合をピンハネされていました。

彼女らの化粧品や日用品などは自腹だったようですが、文玉珠(ムン・オクチュ)の『原簿預払金調書』を見ると、それを差し引いてもさらにこれだけ稼げるほどの収入を得ていたようです。

彼女は他の慰安婦のように『無駄遣いをしなかった』ためこのように貯蓄することができたと自伝に書いていますが、それでも高級な衣類や宝飾品などは購入していたらしく、それらを身にまとい、街に繰り出すのが誇らしいと述べていました。

慰安婦時代は日本兵の恋人もいたようで、MMK(モテテモテテ困る)状態だったようです。

※注
上記の文玉珠(ムン・オクチュ)自伝の画像は、テリマカシさん(https://twitter.com/terimakasih0001) のTweetのものを使わせていただきました。
(noteでは、センシティブ設定されてしまったTwitterアカウントや画像を表示できなくなっています)

https://twitter.com/terimakasih0001/status/1323402191873306625
https://twitter.com/terimakasih0001/status/1324250198978174976
https://twitter.com/terimakasih0001/status/1643398039737094149
https://twitter.com/terimakasih0001/status/1574902203713658880


文玉珠(ムン・オクチュ)の証言の遍歴

※注
⬇のブログ記事の情報を使用させていただいております。

文玉珠(ムン・オクチュ)の他の慰安婦同様、証言がコロコロしており一貫性はありません。
彼女のどの証言が真実なのかは不明です。
(多額の預金されていた『原簿預払金調書』については真実だと証明されています)

特に注目すべきは、『マツモト』と名乗る朝鮮人の『宋』の存在です。
初期の頃はマツモトから誘われたと証言していましたが、後に、彼女の友人から誘われたと変化しています。


朝鮮人の売春宿オーナーの宋(日本名:マツモト)について

✅ 1991年 裁判の訴状
儲け話を持ちかけ、文玉珠を慰安所に誘った。
「ちょっと遠いところだが、食堂で働けばお金が儲かる」
文玉珠らは集まった切符を毎晩松本に渡し、月一で半額が慰安婦に渡された。

✅ 1992年8月10日 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊
会えば挨拶する程度の顔見知りの男(宋(日本名:マツモト))から、「ちょっと遠い所だが、食堂で働けばお金が儲かる」と誘われた。

✅ 1993年7月 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち
会えば挨拶する程度の顔見知りの朝鮮人男性(宋(日本名:マツモト))から、「ちょっと遠い所だが食堂で働けばお金がもうかる」という話を言われた。

✅ 1993年10月 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち
満州から帰国後、友人の誘いで釜山に行く。
釜山には、文玉珠らを管理する朝鮮人(日本名:マツモト)が居た。

✅ 1996年2月 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私
満州の慰安所で働いていた友達のヒトミとキファの誘いで指定された甲乙旅館という名の旅館に行くと、満州時代の慰安婦の友人や、マツモトという朝鮮人の男と、六十歳をすぎた朝鮮人の男と、その甥がいた。
朝鮮人のマツモトは顔見知りの男だった。
朝鮮人のマツモトは彼女らから切符を受け取るだけで、少しも金を与えなかった。
慰安婦たちは一致団結してストライキを行った。


彼女の友人のストーリーは後付けなのか、ビルマの慰安所に行くきっかけも変化しています。

18歳 ビルマの慰安所に行くきっかけ

✅ 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち
偶然知り合った友達の誘い

✅ 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私
満州の慰安所で働いていた友達のヒトミとキファの誘い
(なぜかヒトミとキファまでもが満州の慰安所から朝鮮に戻ってきている)


彼女は、少女の頃福岡県で働いていたと証言していますが、どこで働いていたのかも大きく異なっています。
流石にこの変化はないだろうと普通は思うのですが、彼女は自分の言ったことを忘れてしまったようです。

13歳 福岡県大牟田の店

✅ 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち
➡ 遠い親戚の古物商
➡ 学校に行かせず、毎日家の手伝いばかりさせられていた

私が「軍人が来るからといって、私たちとどう関係あるの」と言うと、その人はひどく困ったように「軍人たちが寝ることところなのよ」と言いました。その人たちの説明や、くやしそうなようすをみても、私には、軍人が寝ることと自分がどう関係があるのか理解できませんでした。

✅ 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私
➡ 売春宿
➡ 大きくなったら身売りさせられる

わたしはすぐに大牟田の釜山館と芸者や女郎のねえさんたちを思い出して、ここは男の相手をする家だということがわかった。主人は朝鮮人の六十歳くらいの男だった。


時系列

1991年 裁判の訴状
文玉珠は少し顔を知っていた男から「ちょっと遠いところだが、食堂で働けばお金が儲かる」という話を聞かされた。
その男の姓は宋(ソン)で、日本名は松本と言った。
一九四二年七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山に出発。
慰安所受付で、兵隊は料金と引き替えに慰安所切符を受け取り、部屋に入り文玉珠らに渡していた。
毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された。
貯金した一万五千円のお金は、兵隊からのチップであった。
慰安婦は軍属扱いであったので、文玉珠もここに貯金していた。
自分で行ったり、兵隊に頼んだりした。


1992年5月22日 毎日新聞
一九四三年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円


1992年8月10日 <証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊
会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から「ちょっと遠い所だが、食堂で働けばお金が儲かる」
その男の姓は「宋(ソン)」で、日本名は「松本」
一九四二年の七月九日に、今と同じ場所にあった大邱駅から汽車で釜山(プサン)に出発


1993年7月 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち
会えば挨拶する程度の顔見知りの男の人から、「ちょっと遠い所だが食堂で働けばお金がもうかる」という話を言われた。
その人は大邱に住んでいる朝鮮人
その男の姓は「宋」で、日本名は「松本」


1993年10月 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち

親戚の家は福岡の大牟田にあり、大勢の人夫を使って古物商をしていた。
長い髪を切られて悲しんでいる私の気持ちなど知らんぷりで、約束した学校には行かせず、毎日、台所の洗いもの、洗濯、掃除や、自分の子どもの世話ばかり見させようとしました。

一九四〇年、私は、満十六歳になりました。
この年の秋の暮れ頃でした。

まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。
彼は、突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。
その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れて行かれました。
連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。

普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男に渡しました。
私たちは当時の中国東北部、逃安城というところで汽車を降りました。

私が「軍人が来るからといって、私たちとどう関係あるの」と言うと、その人はひどく困ったように「軍人たちが寝ることところなのよ」と言いました。
その人たちの説明や、くやしそうなようすをみても、私には、軍人が寝ることと自分がどう関係があるのか理解できませんでした。

来てからちょうど一年ばかりたった九月でした。
主計将校が私に、慰安所の外で所帯をもっていっしょに暮らそうと言いだしました。
そこで私は彼に、「私が連れて来られた時、母が病気で死にそうでした。
だから、あなたといっしょに暮らす前に、まず朝鮮に行かせて下さい。行ってきたら、きっといっしょになります」と言いました。

そんなことを言って哀願する私に、彼は、本当に帰って来るねと何度も念を押しながら朝鮮に往復できる証明書を出してくれました。

大明洞の近所に、偶然知りあった友人が一人いました。
一九四二年七月はじめ、この友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞きました。
私はもうだめにされた身体だと思っていたので、どうせのことならお金でもたくさん稼ごうと思って、すぐ承知しました。
次の日、私は家族にもだまってそっと家を出て、その友人といっしょに釜山行きの列車に身を託しました。

釜山に着くと、駅前には二人の男女が待っていました。
二人とも朝鮮人でしたが、男は松本といって、後でわかったことですが、私たちを管理する人でした。
そして、女の方は私たちと同じ慰安婦で、ただその男について出てきたようです。
この二人は、まごまごしている私たちをある旅館に連れて行きました。

そこには、すでに十五、六人の女たちが来ていました。
ここで、私は満州でいっしょに過ごした金ケファと再会しました。
私は一方でうれしく思いながらも、本当にびっくりしました。

私は創始改名による姓の「文原」をそのまま使い、名前は「ヨシコ」とつけました。
マンダレーー以来、私は物品を管理しているホンダ・ミネオと次第に親しくなりました。

私の通帳にはそれでもまだお金がかなりたくさんありましたが、ビルマのどこかで通帳をなくしてしまいました。
その当時、お金を送る時に、ある軍人が全額送れと言いましたが、私も将来故郷に帰ったら生活が苦しいだろうからと思って、とっておいたお金でした。


1996年2月 文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私

わたしは十二歳になっていた。
そのころ、日本の九州大牟田で料理屋をしているという夫婦が訪ねてきた。
その主人は六十歳くらい、妻は四十歳くらいだったと思う。

「商売が繁盛していて人手が足りない。子供たち二人が放りっぱなしなので、子守をしてもらえないだろうか。きてくれるのだったら学校にもやってやろう、ゆくゆくは自分の家から立派に嫁にもだしてやろう」といった。
店はなるほど繁盛していた。
わたしは突然、朝から晩まで騒然としている調理場に放りこまれた。

学校に行かせてもらえるどころか、毎日、子守、掃除、洗濯。
それから一日中、薪を燃やしている竈の火の番、使い走りといった用事をいいつけられた。
とにかくじっとしている暇はなく、なんとも忙しいところだった。
「大牟田市中島町釜山館」
忘れられない住所と屋号だ。
中島町というのは男たちが遊ぶ街だった。
釜山館は「乙種料理屋」といっていたが、売春宿だった。
何年か釜山館の下働きをして体が大きくなったら、わたしも身を売らなければならなくなるということがわかったからだった。

わたしはそのとき十六歳になっていた。
~(中略)~
夕方、歩いて二十分ほどの家に帰る途中、「ちょっとこい」と呼び止められた。
日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事だった。

わたしは怖くて声も出ない。
後をついていった。
なんの用かと聞くことなど、とてもできなかった。
朝鮮人であるわたしたちにとって、憲兵といったら、この世でいちばん恐ろしい存在だった。
~(中略)~
連れて行かれたのは憲兵の詰め所だった。
そこには少女が一人いた。
~(中略)~
翌朝、わたしと少女は大邱駅から汽車に乗せられた。
別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引渡された。

連れていかれた家は大きな民家で、部屋がたくさんあった。
「グンポール」という名がついていた。
二十人ほどの朝鮮人の若い女たちがいた。

そのうちの三人ほどは赤色や桃色の派手な日本の着物を着ていた。
わたしはすぐに大牟田の釜山館と芸者や女郎のねえさんたちを思い出して、ここは男の相手をする家だということがわかった。
主人は朝鮮人の六十歳くらいの男だった。
女たちはみんな大邱から引っ張られてきていた。
名前はヒフミ、カナリヤ、キミコ、ハツコ、ヒトミ、キファ、アキミ、ヒロコなどといった。

日本の名前をつけろと主人にいわれ、わたしは、そのころ流行った映画『不如帰(ほととぎす)』の主人公の武雄と波子にちなんで、ナミコに決めた。
「母が病気だから大邱に戻って看病したいのです。かならず戻ってくるから、汽車の切符を買うための証明書を書いてください。」

憲兵は証明書を出してくれた。
主人にも「かならず帰ってくるから、おねがいです」となんどもいって慰安所を出してもらった。
一緒に釜山行きの汽車に乗ったのは、肺病になって働けなくなった二人と、仮病を使ったもう一人と、わたしの四人。友達の名前は憶えていない。(P.36~37)

わたしは十八歳。
若かった。
「日本軍の食堂に働きに行こうよ。金もうけできるよ。」とわたしを誘いにきたのは、ヒトミとキファの姉妹だった。
トアンショウのグンポールで働いていたときの友達で、そのときは近所に住んでいた。

指定された甲乙旅館という名の旅館に行って、わたしはびっくり仰天した。
アキミが、ヒフミがいる。
トアンショウで一緒だった友達がそこにきている。
わたしたちは奇遇を喜んで、「まあ、どうしたの、あなたも南の国にいくの、一緒でよかったね」といい合った。
きょうはここで一晩泊まるのだ、といわれた。
そこには、マツモトという朝鮮人の男と、六十歳をすぎた朝鮮人の男と、その甥がいた。
この男たちがわたしたちを引率したのだった。
マツモトは顔見知りの男だった。

マツモトに引率されて軍専用の岸壁にいった。
そこには百五十人から二百人ほどの娘たちが集まっていた。

マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。
食べ物や着るもの、ちょっとした化粧品を買いたかった。
わたしたちは一致団結してストライキを打つことにした。
いつもわたしがリーダーとなって、金をくれないのなら働かないといって交渉した。

そうやって実力行動を起こしたときだけ、マツモトは金をわずかばかり、そう一円か二円だけくれるのだった。
わたしの手もとには、少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。


📓 日韓併合時の捏造情報に対する反論資料集

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