夭逝のピアニスト リパッティ



音楽プロデューサー、またケンウッドの経営者でもあった中野雄さんは
イギリスのEMIの敏腕プロデューサーだったウォルター・レッグが来日した際にインタビューしています。

「これまでに最も印象に残った演奏家は誰ですか?」と

ウォルター・レッグは、迷わずに
「リパッティ」と答えたそうです。

指揮者のカラヤンと打合せをするウォルター・レッグ(手前がカラヤン)

リパッティはルーマニア生まれのピアストです。
亡くなってから70年以上になりますが
今もなおリパッティのことを偲びつつ、その演奏の素晴らしさを讃える人たちが後を絶ちません。

1933年、ウィーンの国際ピアノコンクールで第2位になりました。
この時に審査員の一人であったコルトーはリパッティが第1位であると強硬に主張し、審査員を辞任するという事件が発生しました。

その後、リパッティはパリ音楽院でコルトーに師事します。
また、作曲法や指揮法も学んでいます。


ビアノはベヒシュタインを愛用したそうです。
ベヒシュタインは、豊かな音色です。

やがて第二次世界大戦が始まると
故国のルーマニアに帰国しますが、
戦況の悪化とともにスイスへ逃れることを決意したようです。

ウォルター・レッグは、スイスに山荘を持っていて、それをリパッティに提供したと思われます。

このスイスへの逃避行で体力を消耗し、寿命を縮めた可能性が高いです。

やがて、リパッティは、ホジキンリンパ腫という難病になってしまいました。

当時は特効薬と言われたコーチゾンが開発されました。
高価な薬のため、リパッティを知る芸術家達から寄付が寄せられ
何ヵ月分かのコーチゾンを確保することができました。

主治医は、「これからしばらくの間、小康状態が訪れます。録音するなら今しかありません」と言います。

当時としては最新鋭の録音機材は南米へ出払っていたため、その機材が急遽スイスまで運び込まれました。

この輸送だけでも1か月以上はかかったはずです。
バッハやモーツァルト、シューマンなど、多くの曲が録音されました。

そして、1950年、ブザンソンでラスト・リサイタルが開催されます。
33才でラスト・リサイタルです。

この日がリパッティの最後の演奏会になることは、皆が知っていました。

リパッティも当日は体調が悪く、主治医はもちろん、周囲の家族も演奏をキャンセルするようリパッティに強く勧めたようです。

しかし、リパッティは「僕の演奏を楽しみにしている人達の期待を裏切ることはできない」と強くに出演することを主張しました。


1950年 ラスト・リサイタルのプログラム

聴衆の拍手にも、熱烈な歓迎というよりも、リパッティの体力を気遣っている様子がうかがえます。

リパッティも、途中で何度もステージ横の控え室で休みながら、また渋る主治医を説得して、気を失わずに最後まで演奏を続けられるように強い注射を射って
ステージへ向かいました。

しかし、リパッティも力尽きてしまい
予定されていた最後の2曲は弾くことが叶わずに、バッハのカンタータ「主よ、人の望みの喜びよ」を代わりに弾いて
最後の曲としたということです。

これを書いてから、1950年頃のリパッティについての記述を見つけましたので引用してみます。

<1950年5月末、ジュネーヴのリパッティの主治医デュポア=フェリエール博士から、「リパッティ録音可能、すぐ準備せよ」の電報をEMIは受けとった。主治医の説ではコーチゾンによって病状は一時軽快したが、その効果はせいぜい2ヵ月しか続かないという。そこで仕事は急ぐ必要があった。(中略)録音装置は仏HMVが南仏プラドのカザルス音楽祭の録音のために米コロンビアに貸与中の最新型装置をスイスに回送させることにした>

<引用元>
"| 月刊音楽祭" https://m-festival.biz/introduce/22100



スイスのブザンソンにて

リパッティは、同じルーマニア出身のピアニスト、クララ・ハスキルからのラブ・レターにも相手を傷つけないように気遣いのこもった返事を書いていたとも伝えられています。


クララ・ハスキルとリパッティ


3年前にマラソンの瀬古選手の息子さんがホジキンリンパ腫で亡くなりました。
34才だそうです。
心よりお悔やみ申し上げます。

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