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嫉妬と尊敬の差って何だろう?という話

ぼくは人なので嫉妬も、尊敬もする。

でも考えると、その気持ちってどこに「差」があるんだろうか?

どちらも「自分よりすごいなぁ」と思っているけど、一方では妬んでおり、一方では敬っている。

なんでどっちも感情の出発点は同じなのに、差が出てしまうのだろうか


嫉妬と尊敬の意味の違い

嫉妬の意味をネットで調べてみた。

自分よりすぐれている人をうらやみねたむこと。「他人の出世を嫉妬する」
自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもち。悋気 (りんき) 。「夫の浮気相手に嫉妬する」【引用

同じく尊敬の意味もネットで調べてみた。

その人の人格をとうといものと認めてうやまうこと。その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人をうやまうこと。「互いに尊敬の念を抱く」「尊敬する人物」
文法で、聞き手や話題の主、また、その動作・状態などを高めて待遇する言い方。【引用

こうして意味を見てみると分かりやすい。

・嫉妬は、優れている人を見ると恨み妬んでしまう
・尊敬は、優れている人を認めて、敬うことができる

感情がどこで分岐しているかが良く分かると思う。

・嫉妬のほうは「認める」ことができない
・尊敬の方は「認める」ことができる

この違いだ。

嫉妬は悪いのか

でも嫉妬が悪いとはぼくは思わない

誰かを認めることができずとも、それを態度に表さない限りは。

要は「パワー」に変換できれば良いと思う。

嫉妬を糧にして、他人よりも優れている(と思っている)力なり場所なりを手に入れることができればそれは大きな成果になる。

嫉妬する時、尊敬する時ってどんな時だろう

社会に出ると、同僚や同い年の友人などの活躍が疎ましく思える時がある。

もちろんそんな気持ちは表には出さないようにするが、これは思えば嫉妬だろう。

別に社会に出る前からでもそうだった。

学校で勉強ができる人をうらやましく思ったり、運動ができる人を遠目で見ていたりした。

同時に学生時代の先輩を尊敬していた時もあったし、今も尊敬できる人がいる。

※ ※ ※

自分ごとに落とし込んでみると、意外とその差は歴然で、

競い合っているかどうかとか
歳が近かったりする人には嫉妬が出ている気がする。

人をいくつかのカテゴリーに分けた時に、同じようなカテゴリーに入れられるような人に、ぼくは嫉妬してしまうのかもしれない。

同時に尊敬できる人は、同じようなカテゴリーに入らない人や、入っても突き抜けている人、自分にはないものを持っている人、はっきりとした成果を上げている人などが挙げられる。

でもそれだけじゃない気がする。

自分が行きたい場所にいる人に嫉妬してしまうのかもしれない

カテゴリー分けもそうだが、自分が行きたい場所にいる人にも、嫉妬してしまうのかもしれない。

この「行きたい場所」というのは物理的な場所というより、「地位」だとか「職」だとかそういった場所だ。

例えば若くして作家になっている人にぼくは嫉妬することがあった。

その地位にぼくも立ちたいと本気になっている頃があったからだ(今でもあきらめたわけではないが、本気度が下がってしまったというのは事実としてある)。

また例えば、ライターの方の良い文章を見たり読んだりするときに嫉妬するときがある。

その地位に立ちたいと思っているからだ。

でも最近嫉妬ってしたっけな?

でもこれを書いていて思ったのだが、最近そもそも嫉妬らしい嫉妬をしていないかもしれない。

これはちょっと危険信号なのか、大人になったということなのか。

嫉妬をしないということは、自分で確固たる目標があって「自分は自分」という意思があるからだと思う反面、その目標にいる人に嫉妬しないのは「本気度」が足りないから、とも思う。

ぼくとしては本気でやっているつもりでも、どこか諦めのような気持ちが気が付かないうちに大きくなっているのかもしれない。

そんなつもりはないんだけど。

やはり大人になったということなのだろうか。

いや、たぶん調べるくせというか、自分に矢印を向けるようになったのだ。

あの人がこんな文章書けるのはなんでだろう?と考えて、いろいろ探ってみたり
この人がこんなにうまい表現ができるのはなぜ?と思ったら、自分にもできないかと文章を書いてみたり

そういった積み重ねをするようになっていったんだと思う。

だから嫉妬というより、疎ましく思いつつも「自分事にしていく」ということを覚えたからかもしれない。

自分ができる範囲で、ちょっとでもいいから「優れている人」に近づこうとする。

いろんな嫉妬や尊敬を経験してきたから、そんな今があるのかもしれない。

自分と同じカテゴリー内にいても、優れている人は優れている人でやはり「認める」ことができるようになったんだろう。

そのうえでなんで僕にはできていないのか?も考えられるようになった。

嫉妬だけでなく尊敬からも自分の「パワー」にできているのかもしれない。

まとめ

嫉妬と尊敬の差は「認める」ことができるかどうかだ。

でも決して嫉妬が悪いわけではない。

その気持ちを糧にして人は努力ができるし、どうしたらその人に近づき追い越せるかを考える頭を持つことができる。

その考えを持たないと、不毛な嫉妬になってしまうが、パワーに変換できた時は強い。

また尊敬も、同じように「認めた」上で近づこうと努力できる。

ただ「認める」だけで終わってしまったら何も変わらない。

要は、嫉妬しようが尊敬しようが、自分が考えられるかどうかだろう。

そう考えると嫉妬と尊敬の差なんて、ほんとはすごく小さいことなのかもしれない。

コーヒー代を投げてくれると、大変喜ぶ習性があります。