老女と思い出と光

小さい頃から、家の関係でさまざまなおばあちゃんに会ってきた 血縁はない たまたま出会っただけの老女たちである

彼女たちは私の人生において何か残したわけではなく、いつも想うふるさとというような甘やかさもそんなにない 死に際に何か伝えられることもなく、みな気づいたらこの世を去っていた 具体的な何かやり取りみたいなものも、特になかった

なのにたまに思い出す ふとした時の老女たちの人柄や、彼女らを見る時同時に見ていた、取り巻く周囲の様子 前後のやりとり まだ残っている何か

それぞれの思い出は私の幼少期と密接に結びついている というか私にとっての彼女らは、私の幼少期に綺麗に閉じ込められている 一番近い記憶でも、うちの1人の告別式に4、5年前に参列したところから更新されていない

忘れないうちにしたためておこうと思ったまでである


1/岡本のおばちゃん

岡本のおばちゃんは、実家の隣に住んでいたおばあちゃんのことである 隣とはいえ位置的には斜向かいで、間に垣根があったから毎日顔を合わせていたわけではない 垣根には子供が1人通れるくらいの抜け穴が空いていて、おばちゃんの家に行くにはそこが最短ルートだった そう、私はおばちゃんの家によく遊びにいっていたのである
出会った頃から腰がかなり曲がっていたおばちゃんは、よくうちの敷地を通り抜けて散歩していた 家の前の石段におばちゃんが腰掛けていて驚いた経験も、一度や二度ではない 見つけても声をかけずそっとし始めた時期があったことを考えると、小学生くらいまではおばちゃんは存命だったはずだ
おばちゃんの家は古くて小さな平屋で、「岡本のおじちゃん」がいた頃もあったんだろうと思わせられる色々があった 靴を脱いで上がるとちゃぶ台があって、そこしか私は見たことがなかったけど、人体モジュールでも考えたのかと思うほどおばちゃんにピッタリのサイズ感だった(気がする)いつも何かをくれた それはおばちゃんの手作りの何かだったりした

いつの頃からかおばちゃんの家には宅食のトラックがよく来るようになった おばちゃんについて私が時系列で追えるのはここあたりが最後になる ある日おばちゃんが亡くなったことを母親から知らされる 確か葬儀はなかったか終わった後だったかで、参列しなかった おばちゃんの家は程なくして取り壊され、今は別の隣家が土地を買い取りプレハブ小屋を建てている

後にも先にも、幼少の私が友人宅でない「単なる近所の人の家」によく行った経験はこれのみである そして、他人から(少なくとも当時の私にとっての)後腐れのない善意を受けたこともこれくらいだ 近所の老人の家によく行っているという状況は時代を追うごとに少なくなるだろうなと思いつつ、ぎりぎりそんな経験を持てたことが今は純粋に嬉しいと感じる 人は誰だってガキの頃入り浸った駄菓子屋、みたいなものに憧れるから

垣根の穴を通っていたことを、これを書きながら思い出せて大変嬉しい

2/上田のおばちゃん

この人は「う」から始まるとある土地に住んでおり、その地名を取って呼んでいた 本当は「上田のおばちゃん」ではないのだが、個人情報保護の観点からこんな感じになっている つまり「上田の」というのはただの仮名である

上田のおばちゃんは、冒頭で書いた「4、5年前の告別式」の人である この人だけ親戚で、なのに紹介する3人の中では一番エピソードが薄い どういうことやねん こんなことを書いたら祟られるかな おばちゃんに 怖

色々あった父方の親類であるため、別に私が持つ思い出が特段美しいというものではない むしろ色々言っとったな…とちょっと苦い顔になるような人である
ただこのおばちゃんが持つ唯一のおもしろ;「立つ度にオナラをこいてしまう」があまりにも強烈で、いまだに母親はこれで笑っている
本当に立つ度にオナラするのだ 立つための腹筋がそうさせるのだろうか おばちゃんは親類で集まった時の長老で、ボケも入っていたためオナラにあまり気づかず、みんなが笑いを堪えるのに必死だった 意地の良くないクソみたいな集まりの中で、その時だけが唯一みんなの心が通った 本人は気づかず飄々としていたが

おばちゃん亡き後、親類の集まりはなくなった コロナでというのもあるし、欠けたのならもういいかとなったのもあるだろう 意地の悪いやり取りをもう見なくていいと思うとありがたい限りである
おばちゃんとしては不本意だろうが、自分のことで死んだ後も若いもんが笑ってくれるというのはなかなか悪い話じゃないような気がする 
でもできれば私はもうちょっとスマートな笑いを取って死にたい 


3/藤原の奥さん

藤原の奥さんと会ったのは、たったの一度しかない 

藤原の奥さんは、父の得意先の奥さんである 一度仕事について行き、暇していた私の相手をしてくれたのが藤原の奥さんだった
奥さんは美しい西洋庭園を自宅に持っていて、その守り人だった 植物園のような広さはもちろんないが、個人邸宅としてはかなり広かったはずである 訪れたのは穏やかに晴れた日で、奥さんが庭を案内してくれたのを覚えている 確か小道が張り巡らされていて、ところどころに小鳥のための鳥小屋があった それに触発されて、小学生の私も鳥小屋を作った もう朽ちてどこかに消えてしまったけど
一通り見たところで奥さんが紅茶を淹れてくれた テラスのような半屋外の場所で飲んだ記憶がある レモンを入れてくれた 当時の私は紅茶を淹れてもらうことも、当たり前のように生のレモンを入れることも新鮮で、美しく、高貴なもののように見ていた 奥さんがすることが全て素敵だと思っていたのだ
だからだろう、奥さんがミルクを入れることを提案してくれた時、何も考えずイエスと答えたのは
もちろん今は知っているし、当時も初めてではなかったはずだ ご存知の通り、レモンティーにミルクを入れるとミルクが凝固する ミルクを入れて混ぜた紅茶がみるみるボソボソになっていくのを見て奥さんは上品な仕草で慌てた 私は多分、そっか〜〜!とか思っていたはずだ

不思議なことに、この後どうなったかの記憶はない
確かなのは、奥さんが私(と、その時いた母親)にいろいろなものをくれたこと 私は美しく古いソーダガラスの蓋つき瓶に入った、奥さんが手編みで作ったたくさんの小さな帽子 母はクリスマスローズの苗を大量に テンションから考えるにもっともらったはずだがもう思い出せない とにかく大量に貰って帰ったのだ
瓶入りの帽子はまだ実家にあるし(撮影なんかで瓶はたびたび使った)クリスマスローズも実家で毎年花を咲かせている

奥さんの訃報をリアルタイムで受け取ることはなかった

というより、幼い頃一度あっただけの藤原の奥さんのことを、私が覚えていないと両親が思ったのだろう しばらく経ってから、「あそこの奥さんももう亡くなってね」のように伝えられた 

一度しか会わなかった人というのは、それ以後いない いや、いるが記憶に残っていない 残っていても、感傷に浸ろうと思わない
ただこの藤原の奥さんだけは別である 
それは、奥さんが私に何か、思い出すためのきっかけであるモノをくれたことが原因かもしれない 実際帽子入りの瓶は目立つところにしばらく置かれていた もしくは毎年咲く多年草をくれたからかもしれない でもそれ以上の何かも感じてしまう あの西洋庭園も一緒に思い出しているのだし

死に際に多年草をあげておいた方がいいかもしれない



–––



気づいたら世を去っていた人たちを思い出す時、ピンピンした様子しか思い出せないのは幸せであると同時に戸惑いでもある なだらかに弱っていくところを見ていた方が受け入れやすいように思う ピンピンのまま、今もどこかで楽しくやっているのではないかと思ってしまう

彼女たちを常日頃思い出す訳では全くないのだが、たまに思い出せる たまに思い出せるというのは、純粋に幸福だと思う それはつまり、自分も死後、誰かにたまに思い出してもらえる可能性があるということなのだから 特に藤原の奥さんを想うとき、それを強く感じる たった一度会っただけでも、思い出してくれる人を増やせるのかと 
忘れられるのは、どんな人であれ辛い

覚えていることを伝えられたらいいと思うが、伝えられないところにいるからこそ思えるものもあるはずだ 近すぎて見えない形が、離れてようやく落ち着いて観察できるような 隕石の痕跡たる月のクレーターも、地球からは美しい紋様としてしか認識されないような

いつか自分が遠い光になったとき、それを見てくれる人がいることを願って生きていきます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?