3つの宇宙旅行—SFの認識異化の3形式——『ソラリス』「デセプション・ベイの化け物」「クレー射撃にみたてた月飛行」について(2020年夏学期「中東欧のSFを読む」の期末レポート)

似非SF化した現実
 スーヴィンはSFを「異化と認識の共存と相互作用を必要かつ十分条件とする文学ジャンルであり、その主たる形式上の技巧は、作家が経験できる環境に変わる想像的枠組である」としている。ここで重要なのは、スーヴィンが「認識」を重視している点である。おとぎ話やファンタジーとSFをスーヴィンが入念に区別するときに問題にしているのがこの条件である。ただ現実とは異なった世界を描くだけではいけないのだ。SFは「虚構的(「文学的」)仮説を出発点にしていても、[…]全体化するような(「科学的な」)厳密さにのっとってその仮説を発展させる」必要があるという。スーヴィンはこうした見解から、スターウォーズを「おとぎ話へと退行するSF」「創作上の自殺行為」と呼ぶ。
 しかし、スターウォーズはスーヴィンの指摘のためにのみSFではない訳ではない。スターウォーズがSFと呼べない理由のもう一つは、もうそれが現実に構想され、断念されたということにある。「スターウォーズ計画」である。
 「スターウォーズ計画」は、1983年にレーガン米元大統領が「悪の帝国」ソ連のミサイルを宇宙上で撃ち落とすという構想を提唱した際に、その技術的な不可能を揶揄するために構想に対して当てられた名前である。先のスーヴィンのSF定義の議論を使えば、レーガンは「おとぎ話へと退行する」構想を生み出したということができるだろう。
 しかし、似非SF作家はレーガンだけではない。宇宙開発競争全体が一面では似非SF的だったとも言える。以下では宇宙開発競争のの中にあった不可能、不合理を照らし出すものとして、三つのSF作品を見る。

ソラリス、哲学的深化
 1972年にアメリカ合衆国が打ち上げたパイオニア10号、73年のパイオニア11号、77年のボイジャー1号、2号にはそれぞれ惑星探査以外の目的があった。これらの探査機には、「異星人」との交流を目指したメッセージが金属板や「ボイジャーのゴールデンレコード」といった形で搭載されていた。
 現実が似非SFになってしまったのはこの時点であった。レコードによる交流というのはアントロポモルフィズムの支えなしには到底思いつかない事柄である。地球外生命体が手を有していなかったら? 地球外生命体が人間とは比べ物にならないくらい巨大だったら? 地球外生命体が人間の諸活動などもはや関心を持たなかったら? こうした問いを、先回りして提示していたのが『ソラリス』(1961)であった。
 著者であるスタニスワフ・レムは言う。「宇宙がたんに「銀河系の規模に拡大された地球」だと思うのは間違っている。宇宙は、私たちがいまだ知らない新規な性質を備えているのではないだろうか。地球人と地球外生物との間に相互理解が成り立つと考えるのは、似ているところがあると想定しているからだが、もし似たところがなかったらどうなるだろうか」ソラリスにおける地球外生物である「海」はまさにそのような存在である。
 惑星ソラリスを覆うゼリー状の「海」は、その「物質代謝」に応じて惑星の軌道を積極的に動かすような構造物であると説明され、研究の対象とされながらも、いまだ、「生き物」かどうかも定まらず、またコンタクトを取ることもできないものとして、しかし、幾千もの変形を遂げるものとされる。
 『ソラリス』では、主人公ケルヴィンの前にこの「海」と対照的なものとして、ハリーという人物が現れる。ハリーは、ケルヴィンのかつての恋人で、物語が始まった時点で死んでしまっているのだが、ソラリスの「海」によって生み出された実体「幽体F」として登場する。このハリーは見た目はちょうど人間のようであり、話すこともできるのだが、一方で不死身の存在であり、一度ロケットで追い払っても再び現れる存在として描かれている。さらに同じような「幽体F」は、ケルヴィンの他の人物に対しても現れる。「幽体F」は各々の心の中で抑圧した対象が実体化したものとして説明されるため、ケルヴィン以外の人物はこれに苦しめられている。
 ケルヴィンは最初はハリーの出現に恐怖したものの、物語が展開するにつれ目の前のハリーとの愛情を深めていく。一方で、他の人物たちは自らを苦しめる「幽体F」の壊滅を試み、この点で、ケルヴィンと対立することになる。作品はこうした展開の中でラブロマンスと読むこともできるように作られている。そこにあるのは、人間と人間のようなものとの愛である。
 しかし、作品の終盤においてこの愛はハリー自らが滅びることを選ぶという形で、挫折することになる。ケルヴィンは、ハリーを生み出した、目の前の、人間とは全く異なるもの、ソラリスの「海」に作品の最後で会いにいくことを決める。そこで人間と人間的ではないものが持つ関係は以下のように描かれる。

 波はためらい、退き、私の手を取り巻いた。しかし、それでも波は私の手には触れず、波にできたくぼみの内部は粘り気をすぐに変えて、液体から転じてほとんど肉のようになり、私の手袋との間に薄い空気の層を残した。

 ケルヴィンは「海」に触れることができない。それにもかかわらず、結末において彼はその中に止まり続けることを選ぶ。
 この作品においては、ケルヴィンとハリーとの愛の関係がある一方で、ケルヴィンと「海」との関係は、もはや接触することのできないもの、関係不可能な関係として描かれている。この二つの関係の対比のうちに、レムが先に発言していたような、似たところがないものとの不可能な相互理解が、それでも相互理解を続けるほかないものとして示されている。
 しかし『ソラリス』のこうした構想は理解されなかった。1972年のタルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、最後の場面にケルヴィンの家族、ロシア、地球が登場し、ソラリスは最終的には、我々にとってあくまで知り尽くされた対象を惹起させる象徴として現れてしまう。また、2002年のソダーバーグの『ソラリス』では、あくまで対比されるべきものに過ぎないケルヴィンとハリーとの恋愛の方が強調される。
 こうした無理解(とその商業的ヒット)のために『ソラリス』の批評的機能は無視されてしまったということができる。しかし、そこに注目した時には、いまだに我々に宇宙人を「グレイ」として想像させるようなアントロポモルフィズムからの脱却を可能にさせる作品である。

デセプション・ベイの化け物、アイロニー的可視化
 宇宙開発においては現在でもなお事故が起きており、2007年までには30人の死者が出たとされている。一つ一つの事故の次第を追わずとも、我々は容易に宇宙開発のリスクを理解できる。発射時の事故、空気もれ、機械トラブル…、そうしたリスクを伴いながらも宇宙開発を行うことに意味はあるのだろうか? しかし、そのリスクを隠しながらも、宇宙進出の価値を謳うところに現実の似非SF性がある。
 ソウチェク『デセプション・ベイの化け物』(1969)はこうした点を照らし出している作品と言える。この作品の主人公は開発のためのテストパイロットである。訓練の厳しさは直接的に描かれているようにも取れる。

 このわたしが、全ウィチタフォールズ部隊の選抜野球チーム一の強打者、きつい野良仕事だって慣れっこの男が、夜にはなんとか寝床にたどり着くのがやっと。誓って悪態をつく元気すらなかった。六〇キロの行軍の後に、二〇〇ヤード競争と高飛びの競争ですぞ! しかも上出来だったというんで明くる日も行軍の繰り返し。しまいには気分転換にと五〇〇メートルの競泳までやらされた。

 しかし、この描写の中にはアイロニーが含まれている。「上出来だった」のにも関わらず(休むのではなく)「行軍の繰り返し」、「気分転換」にも関わらず(休むのではなく)「五〇〇メートルの競泳」、こうしたアイロニーは、<期待>へ言及した上で、それに対する<現実>を皮肉めいた仕方で提示することによって、訓練の厳しさを強調するのに役立つ表現である。
 作品の中では、宇宙開発の馬鹿馬鹿しさを強調するために、この修辞は多用されている。

月は最も近い天体であるものの、着陸はそうたやすくないということだ。(…) だがな、いずれも時間のかかる話なのだ。ここで勢い持ち上がってきたのが別の選択肢—火星着陸 というわけだ。これならロシア人の月などかすんでしまう成功が見込める。

 ここでは、「月への着陸がたやすくない」にも関わらず(計画を中断するのではなく)「火星への着陸」が目指されるという仕方で批判がなされている。
 『デセプション・ベイの化け物』のうちでは、他の種類のアイロニーも使われている。冒頭の「ロケットは遠目にしか見たことがないのだよ」というフレーズは、SFを読んでいる読者が当然抱く期待を裏切るという仕方でのアイロニーである。このアイロニーを外在的アイロニーと呼ぶことにする。
 外在的アイロニーは作品の核心部のサスペンスを強める仕方で使われている。主人公は行軍訓練に出ることになるのだが、そこでNASAが用意した宇宙人を模した仕掛けに出くわす。こうした場面に触れるにつれ読者は期待を裏切られることになる。作品についていえば、そうして裏切られた期待が最後「化け物」によって叶えられたか叶えられないか(つまり、宇宙人が現れたか現れなかったか)というところにサスペンスがある。
 しかし、この外在的アイロニーを、現実の宇宙開発競争への期待に対するアイロニーと考えることもできる。つまり、夢に見るようなロケットや宇宙人、宇宙移住といったものは、開発を進めたい側が喧伝しているものに過ぎず、現実はそれほど夢にあふれたものではないということを強調していると見ることができる。
 二種類のアイロニーはそれぞれ異なった仕方で作用している。先に見たアイロニーは、宇宙開発の中にある無理を直接明らかにするものであったのに対し、外在的アイロニーは、宇宙に見るロマンを捏造されたものだと明らかにする機能を持っている。

クレー射撃にみたてた月飛行、コメディ的無効化
 宇宙開発競争は、1969年のアメリカの月面着陸と1975年のアメリカ、ソ連の共同計画によって終わったとされるように、それ自体が、アメリカ対ソ連の技術力の勝負としての役割を強く持ったものであった。後には経済的疲弊しか生まないにも関わらず、互いにロケットを飛ばしあうという状況それ自体が不合理であるとも言える。この不合理に着目したのがコサチーク「クレー射撃にみたてた月飛行」(1989)であった。
 この作品の月飛行への態度は「「月に行ったとしてだね、そこに何があると?」」という冒頭のウェルズの引用からもわかる。何も生まないにも関わらず月を目指すケネディをこの作品は徹底的に笑い者にする。
 メタフィクション的な構造になっているこの作品の中では、「実際の事件の事件をレポートすることはない」と考えて描かれたケネディ暗殺事件についての短編が展開される。
 ケネディは路上洗濯女と通りすがりの男との子供であるが、母親から言われた駐英アメリカ大使ジョー・ケネディの息子であるということを信じ込んでいる。会うたびに合体するガールフレンド、ジャクリーンの兄であるダニーが、彼の元に月がゴールの競争を誘う地球外生命体からの公文書を持ってきたために、ケネディは文書が巡ってきた自分が月へ行かねばならないと思い、大使に相談し、月に行く前段階として合衆国大統領になることを決める…。
 こうした展開はとことん馬鹿げた不謹慎なユーモアに溢れた仕方で描かれている。作品全体として描き出すのは、宇宙開発計画の偽史である。コサチークはこうした偽史によって、宇宙開発競争を正当化する物語を無効にしようとしたと考えることができる。

認識異化としてのSF
 これら三作品を我々は「政治の美化に対する芸術の政治化」として見ることができる。その政治化の可能な様式がここでは哲学的深化、アイロニー的可視化、コメディ的無効化という仕方で三様に展開されていた。最後の作品はもはや、冒頭に提示したSFの定義を逸脱していると言えるかもしれない(しかし、小説内小説という構造で、ケネディについての短編を読むところまでは厳密さに則っているということもできる)。何れにせよ、これら作品にあるものは安易な政治への迎合ではなく、今目の前にあるSFめいた現実を異化・批判しようとすることへの通徹した態度であるということができる。


[参考文献]
コサチーク・パヴェル「クレー射撃にみたてた月飛行」『チェコSF短編小説集』ヤロスラフ・オルシャ・jr. 編(平野清美編訳)241-272頁、平凡社ライブラリー、2018。
スーヴィン・ダルコ(大橋洋一訳)『SFの変容—ある文学ジャンルの詩学と歴史』、国文社、1991。
ソウチェク「デセプション・ベイの化け物」『チェコSF短編小説集』ヤロスラフ・オルシャ・jr. 編(平野清美編訳)87-140頁、平凡社ライブラリー、2018。
レム・スタニスワフ(沼野充義訳)『ソラリス』、ハヤカワ文庫、2015a。
レム・スタニスワフ(沼野恭子訳)「ソラリス—ファンタスティックな物語」『ソラリス』410-414頁、ハヤカワ文庫、2015b。



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