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聖なる癒し方「ありえない体の痛め方をして癒すことになった話」

どうも、真仙です。

最近、ありえない体の痛め方をしまして、それで自分を癒すことになったんですよね。
この話は、癒しを求める人に参考になる話だと思います。

ある日、朝起きると、背中がめちゃくちゃ痛かったんです。
折れたんじゃないかというぐらいに痛かったです。
右腰と、背中の左側に激痛が走りました。

正直、痛めるような無理な動作をした記憶がありませんでした。
働きすぎもあったんじゃないのかなとも思ったのですが、そんな言うほどの無理をした記憶がありませんでした。
何もないのに、こんなふうに痛める。
すごい頑丈な自分からしたら、ちょっとありえませんでした。

「なんで痛めたんだろうなぁ。なんかあるのかなぁ」

そう思いつつ、痛めた具合を調べてみました。
かなり重症だとわかりました。

動かなくても中くらいの痛みがあり、動かすと激痛にすぐに変わります。
少しだけ息を深く吸うと、背中がとても痛むのです。
背中をほぼ曲げられないレベルで、トイレに行くとお尻をトイレットペーパーで拭くのも一苦労するほどでした。

日常生活を送れないレベルでした。
大事を取って、その日は休みにしたのですが、一日中寝たきり状態でした。
買い物にも行けないし、何も食べられないのです。

「まいったな。おかしいな。こんなことになったことなんてあったっけ?」

生まれてこの方、頑丈も頑丈。
花壇の角に後頭部を強打しても死ななかった人間です(入院&手術はしましたが、一命を取り留めました)

ここ最近、ずっと健康そのもの。
こんなふうに体を痛めることはありませんでした。

動けない中で、一人考え込んでいました。
痛みに耐えながら、様々なことに思いを馳せていました。

ふと、一つの考えに思い至ります。

(こんなふうに苦しんでいる人が山ほどいるんじゃないか)

このとき、自分がめちゃくちゃ苦しい状態なんですが、ふと他の人に対する思いがふつふつと湧いてきました。
寝たきりの状態で、二日目になったときにこう思いました。

(もうちょっと癒しについて研究した方がよかったなぁ)

人間には無限の可能性があると心から信じています。
しかし、癒しの研究について甘かったなと振り返ったんですよね。
誰もがそういう力が潜在していると確信しているのに、探究しないのは怠慢だと感じました。

二日目になっても、まったく治らない状態でした。
起き上がることも一苦労、トイレに行くのも一苦労。
お風呂にはもちろん入れず、食事もとらずにただ寝たきりで考えていました。

この世界は見えるものがすべてではない、と思っています。
肉体重視のヨガではなく、瞑想的な霊性ヨガを探求することで、心の目が開かれていました。
天界の景色も見たことがあります。
癒しについても、様々な話を聞いていました。

これは天が与えてくださったチャンスだと思いました。

自分を癒すのをちょっと試してみようと思ったのです。
すぐに役立つとは言えないけれど、いつかどこかの誰かを救うために力になれるかもしれないという思いです。

誰かの苦しみを癒すつもりで、まずは自分を癒す実験をしようと思いました。

深い瞑想状態に入ると、自分を癒したりできるので、それをやろうと思いました。
しかし、激痛を抱えて、まともに身動きすら取れないぐらいの状態で瞑想状態に入れるのか。

座ったら、めちゃくちゃ痛いのですが、座った方が瞑想しやすいので身体を起こしました。
悲鳴に近い声をあげながら、椅子になんとか辿り着いて座りました。

自分は試されている。

不満を言いたくなるけれど、同時にありがたいことだとも思い直しました。
できるかどうかわからないけど、本気でやる機会をもらったのだと。

いつものように座って、痛みに耐えながら、ヨガの聖音(マントラ)を唱え始めました。
痛みを脇に置くつもりで、マントラの響きに従って、集中状態に入っていきました。
眉間とみぞおちに集中しながら、その向こう側の神意識の薔薇十字をイメージします。

集中が高まると、ある瞬間に至福のエネルギーが流れ出します。
黄金の十字にある赤い薔薇色の光から、薄いピンク色の光が放射してきます。

それが身体に流れ出すのがイメージされると、確かに体は痛いのに至福に満たされていくのです。

痛みの中にあっても、強い意志力で集中は可能だと確信しました。
健康な時にはわからなかったことです。

黄金の十字の向こう側を超えて、完全に純粋な光の流れに入っていきました。
霊体の輪郭が溶けて、魂が蒸発するかのように光に溶け込んでいきました。

最高の幸福感に満たされながら、私は忘れてしまいそうになる目的を何とか思い出そうとします。
いつも、この至福の境地に入ると、全部忘れてしまうのです。

しかし、今回はちゃんとした目的がありました。
癒しを研究したかったのです。

私は自分の曲がらなくなった背中が治るように神に祈りました。

「どうか、背中を治してください」

神の前では、そんな単純な祈りで充分なのです。
しばらく祈っていると、純白の光の中に人間の姿が浮かび上がってきました。
真っ白な完全健康体です。
それは自分の身体でした。

ああ、神の内では完全健康な自分の身体があるのだと感じました。
確信に近い気持ちでした。
それをただずっと意識していると、輪郭がリアルに浮かび上がり、より明確になって、色付きになって、形状などが物質的になっていきます。

どんどんと現実のものとなっていくのです。
彫刻を掘り進めて、人間の形を立体的にするかのようです。
今の自分の身体のように、現実的なものになってきます。

ただし、完全健康な体です。
意識すれば意識するほどに、物質的になっていきます。
そうして、その健康な体に自分がなっていくのです。

その間もふんだんに神エネルギーを全身に受けていました。
神エネルギーが身体に入ると、代わりに雑念のようなエネルギーが抜けていくようにも感じました。


次第にこの世界の自分の肉体にも、高い次元で見た健康体が投影されるように感じました。
どんどんと現実になって、背中のあらゆる箇所がじんじんと熱くなって、時にはむず痒いぐらいの痛みがありました。
でも、それは気持ちいい痛みでした。
細胞が生まれ変わっていくかのような感覚なのです。

その瞑想を15分ぐらいしていたかもしれません。

気づいたら、痛みが三分の一に減っていました。
背中を曲げられるようになっていたのです。

この瞑想は有効だと感じ、その後に計3回ほど行うと、次の日ぐらいには痛みの90%が消え、さらに次の日には99%治っていました。

いつも通り歩けるようになり、トイレに行ったり、お風呂に入ったり、買い物に行って、食事ができるようになりました。
治るのに数か月ぐらいかかりそうな痛め方でしたが、思ったよりもすぐに治りました。

私がやった癒しとは一体どんなものだったのでしょうか。

まとめると。
神意識に入る→完全健康体をイメージする→それを意識し続ける→物質的に現実化されるように感じる→肉体が治る

神意識から、すべてがやってきています。
この宇宙もすべて神意識によって創造されています。
そこでイメージしたことは、創造活動として実現します。

この癒しを他の人もどうやったらできるのか。
端的に言うと、健康な自分をイメージし続けるだけでも十分です。

健康な自分をイメージし続けると、それが潜在意識に入ります。
さらに潜在意識を超えるぐらいにイメージし続けると、超意識に入ります。
さらに超意識を超えると、神意識に入っていくのです。
神意識にまで入れば、それがこの世界の現実になります。

ただ健康をイメージし続けて、それを感じるだけでも現実になってきます。

私のやり方は神意識の最高次元から創造して、下の次元(物質次元)を変えるという方法です。
それに対して、先ほど説明した誰でもできるやり方は下の次元から上の次元で表現されるまで念じ続けるというやり方です。

順序が逆なだけでやっていることは一緒なので、同じようなことが実現できます。
ただ、時間に差があるというだけです。

そんなことができるのかと思われるかもしれませんが、現実に実践されて自分を癒した方がいます。

最後に、その実例の話をしましょう。


・念仏を唱えて自分を癒す

私はヨガをお教えしていたのですが、ある生徒がいました。
生徒のAさんは、以前から不安障害と頸椎ヘルニアの持病がおありでした。
それにも波があって良くなったり、悪くなったりしていたのです。

ある日、どうしても調子が悪いということでヨガクラスを続けられず、やめられることになりました。
その前後に質問がありました。

「どうやったら治りますか?」

ぎゅっとまとめると、そういった質問を頂いたのです。
頸椎ヘルニアと不安障害をどうやったら治せるのかということです。
お医者さんにも通っているそうですが、なかなか良くならなかったそうです。

また、生徒のAさんは仏教徒の方でした。
いつも毎日お経を唱えられているということでした。

正直に言いますと、私には治す方法がさっぱりわかりませんでした。
そこで、全知の神意識に聞いてみることにしました。

究極の神は、本当にすべてのすべてです。
何もかも知っています。
あなたの髪の毛一本一本、細胞一つ一つの状態ですら知っています。

神の至福の光の中に入って、問いかけると答えがありました。

「念じてごらん。良くなるように念じてごらん」

次に、神がビジョンを見せてくれました。
生徒のAさんが毎日お経を唱えながら、念じている姿です。

「それが一番合ったやり方。 あなたの祈念する思いが真理に到達すると治癒する」

私は神から聞いた通りにお伝えしました。
その人にとって、毎日お経を唱えながら念じるのが合っているということですね。

仏教徒の方にとっては、それが一番いいのでしょうね。
キリスト教徒だったら、神は祈りを勧めていたことでしょう。
このように、その人が一番集中できて念じることができるやり方がいいのです。

少なくとも1ヶ月以上、良くなっても3ヶ月ぐらいは毎日お経を唱えて念じるように伝えました。

どうか治りますようにと念じながら、お経を唱えるだけです。
ただ、それだけでも治るということだったのです。

それから一年近く経って、生徒のAさんからメールが来ました。

なんと伝えた通りに実践すると、頸椎ヘルニアと不安障害が治ったそうです。
何年経っても治らなかったものが治ったそうです。
とても感謝していただいたのですが、私の力ではないですよね。

私の先生はその合理的な性格から、お経の正確な発音が失われていると指摘されます。
サンスクリット語から漢語に訳す過程で、それは起こったかもしれません。
(あるいはうまく当て字で訳して、正しい音が伝わってる可能性もあります)
また、正確な発音が失われているなら、霊的な恩恵を期待できないのではないかとも先生は時に述べられたりします。

しかし、私は仮に正確な発音が失われたお経であっても、その人自身が心から仏様や菩薩様を信じるなら、自らの仏性(神性)によって救われると思っております。
お経は現在においても十分に意味があると思っています。

救いというものは、その人自身に備わっているものなのです。
神性や仏性は他の誰でもなく、自分自身の魂にあります。

つまり、その人自身が信仰によって、自らの意識の力を引き出して癒したのです。

私は、いかなる宗教にも属しておりません。
しかし、仏教やキリスト教に含まれる真実を心から尊重しております。
それは宗派を超えて、あらゆる人に通じる宇宙的な真理だと思うからです。

以前にクリスチャンの方が悪魔に憑かれているときは、キリストへ祈ることで加護が与えられるようにしました。
仏教徒の方が自らを癒したいならば、お経を唱え、仏様に祈念するようにお伝えしました。

神はどんな形でも助けてくれます。
あらゆる人に道を用意してくださっているんですね。

もし、無宗教の人が来たら、それはそれでいいのです。
哲学的かつ論理的に、宇宙がなぜあるのかを話せばよいと思っています。
そして、聖なるヨガを通して、心の目を開いてあげればよいのです。
しかし、見えざる存在の可能性を考えられなかったり、話をちゃんと聞かない人には教えることはないでしょうね。

今回の話をまとめると、どんな形でも自分を癒すことはできるということです。
その念じる気持ちが大切ということですね。

以上、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。