僕は僕の地獄を愛す

ここ最近はメンタルも落ち気味で何もする気力が湧かないまま今月も終わりに近づいてしまった。
衝動的に物事を決定しがちな自分はこの有り余った時間をどう過ごそうか模索中だ。
二、三年前みたくゲームをしたり、絵を描いたりしても心は満たされそうにもなく、とは言ってもSNSを無限にスワイプするような日々にも飽きつつある。
圧倒的にリアルで人と接する機会がないため、そろそろ社会復帰しようとも考えたが、考えただけで行動に移すようなことは何一つしていない。
芥川賞作家の宇佐見りんが「地獄とは終わりがないこと、続くこと。」というようなことを言っていたがまさにその通りだ。そしてそれは経年劣化していくことでもあり、縮小されてしまうことでもあるのだと僕は思う。
僕は家族を持たない、いや結婚をしないという明確な意志を持っている。これについては入念に何度も何度も何度も考え抜いて、決断したものだ。100歩譲って結婚はしたとしても、子どもを持つ気が100%ないのだ。このことを了承してくれる妻を、プラトニックラブを許容してくれる人を探すのは、広大な砂漠でダイヤを水を見つけるようなことであり、そもそもしないのではなく、しようと思ってもできないのでは?と思った読者は鋭い、頭がよいと思う。

少し酔いがまわりながら書いているから、何を伝えたいのか見えてこない。昔から、この人が作曲する曲だけはずっと聴きたい、聴き続けたい、この人が書く文章だけはずっと読みたい、読み続けたい、そう思われるような人になりたかった。皆さんにとってそういう人はいるのだろうか?すでに出会えてる人は幸運だと思う。まだ出会えてない人は出会えたときの衝動や喜びが味わえるのが羨ましい。
私にとってそれが、の子であり三秋縋だっただけであり、ただそれだけなのだ。

生きていてもただ苦しくて辛いだけなのなら、瞬間的な快にしか意味を見出せない人も、もうダメなんじゃないかと思ってる人もみんなみんな救われてほしいと思うのはきっと綺麗事だ。綺麗事を書くのも悪くはない。悪くはないけれど、綺麗事に美は感じない。

美しく綺麗事のない今を生きよう。
そこが地獄であってもいいのだ。
そして地獄を愛そう。愛した地獄がいつか嘘みたいに綺麗事に生まれ変わる日を祈念して、最低な生活を丁寧に過ごして生きたい。

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