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最果てにて

稚内のクラーク書店中央店が6月末で閉店する、とSNSで知って驚いた。
報に触れるほんの数日前、初めて訪れたばかりだったからだ。

職場に来る出版社の営業さんに、この店の話は聞いていた。
地方の書店の中でも品揃いが良く、従業員も人当たりの良い方ばかりだというので、1度は行かねばと思っていた。

稚内は、雪のない時期に帰省する際は必ず立ち寄る中継地点である。
立ち寄ろうと思えばとっくの昔にできたはずなのだが、なぜそうしなかったのか、今さらになって悔やんでいる。

これには帰省へのこだわりが関係している。

実家には、必ず朝のうちに着かねば気がすまない。
故郷で過ごす時間は1秒でも多いに越したことはなく、着いた時点で日が暮れていると、それだけで1日損した気持ちになってしまう。

欲望を満たすためには、稚内を朝6時半に出港するフェリーに乗らねばならない。
さらにそのために、前日の夜23時過ぎには車で札幌を出発する必要がある。
となると、稚内に着くころには疲れがピークに達している。
時間が早いため、コンビニ以外の店はことごとくシャッターがおりており、そもそも日本最北端の朝は寒すぎて外へ出る気にもならない。

こうして家にたどり着き、朝食をとった後は大抵夕食の時間まで寝る。
「じゃあ無意味なのでは?」という愚問には、一切耳を傾けないことにしている。

百歩譲って往路は仕方ないとして、復路ならば多少寄り道ができるだろうという者がある。

帰りは帰りで、故郷でのひと時の安寧を名残惜しく思うのが、人間の性である。
早めに札幌へ戻り、翌日の仕事に備えようなどという考えはハナからない。
最後の休日、悠々と最終フェリーに乗ると、稚内着は18時を過ぎてしまう。
2行前の自分に対して「明日仕事じゃねえかのんびりしやがってバカ野郎」と別人格で悪態をつきながら、急ぎ車を走らせることになる。

そんな訳で、中学を卒業して以来20年間、この街をゆっくり散策することはなかった。

幼いころ、いちばん近くにある都会が稚内だった。
年に何度か、母や兄たちと日帰りで遊びに行った。
利尻を朝一番のフェリーで発ち、夕方の最終便で帰るまで、数時間の小旅行である。

フェリーターミナルから車で5分ほどの場所に、「西條」というデパートが今もある。
島では売られているはずもないゲームや漫画、玩具が山ほどあって、いつもここへ行くのが楽しみだった。

小学生のころ社会現象になった、ゲームボーイの初代「ポケットモンスター」を買ったのも、たしかここだった。
喜び勇んで品物を手に取りレジまで持っていくと、カウンターのおねえさんに「ホウソウしますか?」と聞かれた。
「包装」という言葉を知らなかった私は、大人気ゲームともなれば買ったことを他の客に放送で知らせるサービスがあるのか、と思った。
🎵ピンポンパンポン
「利尻島からきた工藤志昇くん(8)が、ただいまポケットモンスターを購入されました」
こどもながらに、そんな辱めには耐えられず、全力で断った記憶がある。
そもそもこどもが興奮してゲームを買いに来た時点で、その子自身がプレイすることは容易に想像できそうなものだ。
大事なモノだから丁寧に包んであげようという気遣いだったのかもしれないが、残念ながらこどもというのは、買ったものをその場で開封すると相場が決まっているのである。

一度だけ、フェリー以外の手段で稚内へ渡ったことがある。
島で野球をやっていたころ、地区大会のほとんどが稚内の球場で行われた。
チームに入団する前も、兄たちの試合があれば父母や祖父母とよく応援に出かけたものだった。

選手たちは試合に備えて現地に前泊するが、応援組は当日島から駆けつけることもあった。
ある日、応援に向かうために乗る予定のフェリーが悪天候で欠航してしまい
落胆していると、選手の父親の一人から連絡があった。
「おら船出すど」(意味:俺の漁船で稚内まで連れて行くから、覚悟と勇気のある者は今すぐ港に集え)というのだ。
この大胆すぎる発案に賛同したのは、私と家族を含めて20人ほどだったろうか。
大時化の海を2時間近く漂い、魚の生臭さがこびりついた船内は、地獄と化していたに違いない。
朦朧としていたためか、そのときの光景も、その後の試合の内容も記憶は曖昧だが、全員生きて帰ったことだけは確かである。

欠航といえば、家族で札幌へ出かけた帰りに猛吹雪に遭い、稚内で足止めをくったこともあった。
「さいはて」という旅館に、2日間泊まった。
5歳になる少し前の1月で、部屋のテレビでは、阪神・淡路大震災の様子と当時世間を騒がせていた宗教団体に関するニュースが、1日中流れていた。

日中特にすることもなく、ひたすら天候回復を待っていたあるとき、空腹に耐えかねた当時小学生の兄2人が母に泣きついた。
札幌までの往復の旅費に、宿代という想定外の出費が重なり持ち合わせがなかった母は、外で何か食べて来るよう2000円だけ渡して二人を送り出した。
しばらくすると、満足気な顔をした長兄と、半べそをかいた次兄が戻ってきた。
母が尋ねると、次兄は憤りに震えた様子で答えた。
二人は駅前にある「ひとしの店」という定食屋に入ったらしい。
席につくやいなや、長兄は明らかに観光客向けの「かにらーめん」を注文した。
これが1800円だった。
確信犯と思われる暴挙に次兄は当然猛抗議したが、長兄は「絶対に変えない」の一点張りで、しかもすべて一人で食ってしまったというのである。
この場合、より罪が重いのは、弟に対する思いやりが微塵も感じられない長兄か、こうなることを予想できず2000円しか渡さなかった母か。
判決は30年経った今もまだくだっていない。
私はといえばそんなことが起きていたとも知らず、家族で礼文島から来て同じく足止めをくっていた、一つ年下の男の子(たしか「みらいくん」といった)と友だちになっていた。
滞在中は、それこそ仲睦まじい兄弟のように遊んでいたのであった。

JR稚内駅は「さいはて」からすぐの場所にあった。
10年ほど前に新駅舎がオープンしたが、その頃にはすっかり利用しなくなった。

古い駅舎の記憶を辿ると、必ず蕎麦の匂いがセットで蘇ってくる。
横に長い建物に入るとすぐ目の前が改札で、右手にはガラス戸を隔てて、だだっ広い待合室があった。
緑色のイスが整然と並ぶ空間の一角が雰囲気のある立ち食い蕎麦屋で、向かい側はキオスクだった。
出汁のいい香りが駅舎中に漂い、その匂いに誘われるように、多くの旅人が列車の待ち時間に蕎麦をすすった。

キオスクには文庫が数十冊置かれていた。
小学生のころ、初めて自分で買った漫画以外の本が、多分ここに置いてあった星新一だ。
『ノックの音が』だったか『N氏の遊園地』だったか忘れたが、いずれにせよ、「長編は読むのが大変だから」という単純な理由で選んだ気がする。

札幌行きの列車が出発するまでの間、駅前の書店でよく時間をつぶした。
アーケード商店街にある2階建ての店と、駅から西に伸びる坂の途中にある店、いずれもクラーク書店中央店がオープンする前のことだ。

今では遠出するとき、家にある本を何冊か適当にカバンへ放り込むのが当たり前になってしまったが、昔は旅の出発地で調達することの方が多かった。
本を買うことで、これから自分は旅に出るのだとワクワクした。
それは多分、駅で立ち食い蕎麦をすするのに似た、至福の時間だったのだと思う。

帰省の行き帰りに、稚内駅前を散策した。

「さいはて」は駅前再開発のため、何年も前に取り壊されたらしい。
「ひとしの店」は同じ場所にあったが、入り口のメニュー表に「かにらーめん」は見当たらなかった。
アーケード商店街はほとんどの店がシャッターを下ろし、店名を表すロシア語が、言いようのない寂しさを滲ませていた。
ドキマギしながら初めて成人向け雑誌を買った坂の途中の書店は、看板に「Books Statio」の文字を残してつぶれていた。

夕方のクラーク書店中央店に、客は数えるほどしかいない。
スマホをいじりながら学習参考書棚を眺める女子高生。
文庫売場をひと通り物色する主婦らしき女性。
仕事帰りと思われるサラリーマンは、入店するなり週刊誌を手に取って素早く会計を済ませ、そそくさと退店していった。
店主かどうかはわからないが、店員がたった一人レジカウンター内のイスに座り、手元のPCで黙々と作業をしている。
たまに客がレジに来るとおもむろに立ち上がって会計をし、ぼそっと礼を言ったあとで、再びイスに腰かけPCに目をやった。

いつでも行けると思っていても、当たり前だが月日が経てば街は変容する。
それでも、心の中にほんのり灯る、忘れがたい景色がある。
たった一度きりの訪店は、旅の足跡が多く残る最果ての地において、思い出にするにはあまりにあっけなさすぎた。
無念としか言いようがないが、かつて故郷と同じようにこの街に育てられ、今は同じ世界で働く者の一人として、長い間の労をねぎらいたい。

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