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北風小僧とダミーちゃん。

 その日、私は先生に名前を呼ばれ、保育所内にあるホールの最前に立っていた。目の前には私以外の全園児が整列し、(一体何が始まろうとしているのか)と、息を飲んでこちらに注目している。照れつつも、一方で少しばかり目立ちたがり屋の私は、胸を張り、誇らしげにホールの天井を見上げながら先生の次の言葉を待った。
(これはどう考えても表彰モノだろう。おれは死の淵から蘇ったヒーローなのだから。さあ、先生よ。讃えるがいい。そして園児たちよ。おれの前にひれ伏すのだ。)
そして、先生が静かに語り始めた……


 と、そんな出だしから始まった今回のテーマは、「夢」についてである。叶える方ではなく、寝ながら見る方の夢だ。
 ある程度年を重ねてくると、ずーっと昔に自分に起こった大きな出来事も、「ひょっとしてあれって夢だったんじゃないか」と思うことがある。幼い頃の記憶というのは大半がいくつかの断片で構成されていて、小説のように最初から最後まで流れがきっちりと描かれているものはほとんどないだろう。夢も同じだ。

 その出来事に大きな影響を受けて今の自分があるというのなら、確かに現実に起こったのだと考えることも出来そうだが、そうでなければちょっと疑わしくなってくる。今回は、今も夢と現実の境界をさまよい続ける私の思い出について考えていきたい。

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 私の故郷利尻島は周囲約60kmで、その中に市街地が4箇所ある。利尻富士町の鴛泊(オシドマリ)、鬼脇(オニワキ)。利尻町の仙法志(センホウシ)、沓形(クツガタ)。ある程度人口が密集しているこの4箇所以外に商店や食堂はほぼ無く、市街地から市街地までの距離が長いため、バスが1日に5本程度しか運行していないこの島では車が必須アイテムとなる。

 信号機の数は、道内の離島の中では多いらしい。今、脳内で島一周ドライブを敢行したところ、全部で10基あった。現在だけの話ではなく、物心ついた時から車はそこそこ走っていたし、テレビもあり、ラジオもあった。牛はいないがカモメはやたらと飛んでいた。したがって当時から、吉幾三が歌う村より都会だったいうことになる。そんなことはどうでもいい。

 私には4歳と6歳年上の兄がいる。末っ子の私は兄達が行く所はどこにでも付いていきたがる子どもだった。

 休日のある日、次兄がクラスメイトの家に遊びに行くことになった。当時保育園児だった私は、この時も一緒に行くと言ってきかず、母が運転する車で兄の友達の家へ向かった。その友達は、私の実家がある二ツ石から鬼脇市街を抜けて仙法志に向かう途中の、野中(ノッチュウ)という集落に住んでいた。車だと10分ほどかかる場所だ。

 兄が、「鬼脇でお菓子とジュース買ってく」と母に言った。友達の家にお邪魔するのだから当然のことである。しかしこの一言が引き金となった。

 鬼脇市街に入り、目当ての商店の道路を挟んだ向かい側に、母は車を停めた。兄は助手席から降り、道路を渡って行こうとした。しつこいようだが、私は兄が行く所はどこにでも付いていきたがる子どもだったので、一足遅れて、「おれもいく!」と、後部座席のドアを開けて車を降りた。

すでに道路を渡りきり、「早く来いや」と急かす兄。

半べそをかきながら兄の元へ駆け寄る私。

右方向から突進してくる車。

え、くるま?

・周りを一切見ず、俺だけを見てダッシュしてきた。(次兄の談話)
・轢かれたとかはね飛ばされたとかじゃなく、気付いたら体がボンネットの上に乗っかってた。(母の談話)

 なんせ断片的な記憶しか無いので、ここからは関係者の証言も交えながらお送りしたい。

 私の体は、走ってくる車を飛び越えようとして失敗した香港のアクションスターの様に、ボンネットの上から転がり落ちたらしい。

 次に目覚めたのは救急車ではない車の中だった。後部座席で横になっていた私がうっすら目を開けると、母が助手席から心配そうにこちらを見ていた。

ん?じょしゅせき?かあさんうんてんは?

・あれ、お母さんの車じゃないよ。轢いた人の車。(母の談話)

驚いたことに、誤って私をはねてしまった男性は、救急車も呼ばず、すぐさま私と母を自分の車に乗せ、沓形にある病院まで搬送してくれたのだそうだ。

 冷静に考えれば、「そんなことある?」と思うかも知れない。だから私も、あれは夢だったんじゃないかと疑っている訳だが、一方でそれがまかり通ってしまうのが利尻という所だとも言えるのである。そもそも大きい病院は沓形にしか無く、救急隊員を呼んでいたら片道20分以上かかる。それならこのまま車で運んだほうが早い。

 この事故のニュースは、全国紙はもちろん、北海道新聞も、日刊宗谷さえも報じてはいないだろう。ましてや島内を震撼させたわけでもない。「ただのちょっとした事故」として、このように内々に処理されたのだった。

 安全意識の欠片もないクソガキをはねてしまった男性は、稚内から手伝いに来ていた土木作業員だったらしい。出張先で思わぬ不幸に見舞われてしまったその人は、私と母を病院に送り届けた後すぐ取って返し、二ツ石にいるばば(祖母)に、それはもう詫びに詫びたそうだ。恐縮しまくった挙げ句、お見舞金まで渡そうとしたようだが、ばばは「いらねいらね!おらいの(私のとこの)孫が悪ぃんだから!」と固辞したという。

・最初は断ってたみたいだけど、結局もらったんじゃなかったかい?5万円くらい。(母の談話)

 私をはねた人よ!ほんとに申し訳ございません。貴方様は何も悪くありません。本来であればこちらが詫びに詫びるべきなのです。いつかどこかで会えたら、どうかご馳走させてください。

 ちなみに鬼脇の商店の前にひとり取り残されたと思われる次兄は、その後どうやって帰ったのか分からないが、家にいる長兄に慌てて報告したらしい。

・「おい、志昇車にはねられたぞ!」って言ったら、「ふーん」て返事しながらドラクエやってた。(次兄の談話)

やはり夢だったかもしれない。万が一の可能性もある弟の事故を「ふーん」で片付けて、モンスターをぶっ殺しまくる兄がこの世にいるはずない。

 さて、私はというと沓形の病院でピンピンしていた。アゴと鼻の頭とおでこの三箇所にかさぶたが出来ただけで、骨も折れていなかった。入院生活はたった一日だったが、病室でずっと「北風小僧の寒太郎」が流れていたのが強く印象に残っている。TVでたまたま流れていたのか、誰かが見舞いにカセットテープを持ってきてくれたのか謎だが、とにかくずっと、

寒う〜ござんすぅ、ヒュルルルルルルン〜

というフレーズが脳内で再生されていた。冬ではなかったはずだが、謎だ。

 退院後は念のため2日ほど自宅療養し、その翌日から保育所に通えることになった。初日は確か、母も付き添ってくれたはずである。

 ここで話は冒頭に戻る。

 子どもあるあるだと思うのだが、怪我をした友達はカッコよく見える。小学生の頃だったか、クラスメイトが松葉杖をついて登校してきた時は心の底から羨ましかった。なんだかそいつがヒーローに見えた。ヒーローから松葉杖を取り上げて他の友達と一緒に怪我人ごっこをした。保育所復帰初日の私も、同じく自分をヒーローだと思い込んでいた。

 全園児の前に立たされた私は先生から、「志昇くん、よく戻ってきたね。みんな心配してたんだよ。その程度の怪我で済んだなんてすごいね。カッコいいね。みんなも志昇くんを見習って強い子になろうね」と褒めそやされる映像を勝手に想像していた。

 先生が静かに語り始めた。

「みんな、志昇くんがこないだ車にはねられました。車に注意しないからこんなことになるんです。皆さんはこんなことにならないように交通ルールはしっかり守ろうね」

…嘘だろ先生?そこにおかあさんもいるんだけど?

夢は続いていたのか。もしくは事故の衝撃で、まだ頭がぼーっとしていたのかもしれない。だが確かに先生はそんなようなことを言った。

 年に一度、交通安全講習があった。保育所と小学校の間に、山道へ続くアスファルトの長い坂道があり、そこで毎回、ダミー人形を使った衝突実験を見せられた。

 人形は「ダミーちゃん」と呼ばれ、性別は不明。茶髪のくせっ毛で、青いオーバーオールにボーダーの長袖を着ていた気がするが、映画『チャイルド・プレイ』とごっちゃになっている気もする。

 ダミーちゃんは、前方にゴツい金網のようなフレームが付いた専用の車に、何度も何度もはねられていた。時速40kmの場合、60kmの場合。車との距離が50mの場合、100mの場合。講習が今も行われているのか定かではないが、あの急ブレーキの音と衝撃音は子どもにとって精神衛生上あまり良くないと思うのでやめたほうがいい。

 わざわざ稚内あたりから来たであろう講師の人は、ダミーちゃんがふっ飛ばされる度に、「はい、こんなに飛ばされました!」「ダミーちゃんかわいそうだね!」と、努めて明るく元気よく、私たちに車への恐怖心を植えつけた。

 そうか。あの先生は私をダミーちゃんに仕立てあげたのだ。顔にかさぶたを作った無警戒のクソガキを見せしめにして、私以外の子どもたちに恐怖心を植えつけ、2度とこんなバカな真似をしてはいけないと、リアルな人間を使った弾丸サプライズ交通安全講習を実施したのだ。なんと貪欲で攻めた教育者だろう。

 そのことに気付かされた今、私の脳内には再びあの曲がフェードインしてくる。

北風小僧の寒太郎
口笛吹き吹き一人旅
ヒューン ヒューン
ヒュルルンルンルンルン
寒うござんす
ヒュルルルルルルン

私がこの曲を聴いて感傷に浸れるのは、哀愁漂う歌詞とメロディのせいだけではないだろう。自らの思い上がりを恥じ、慎ましく生き、決してうすら寒い虚しい人間にはなるまい、そう心に誓うための戒めの曲なのだ。

 あれは確かに現実に起こった出来事だった。何故ならば、そう、今こうして誓いを立てることで、私の生きる糧となったのだから。

それではまた。


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