見出し画像

あの夏、スタルヒン球場で。

ある特定の分野において、他人が自分(もしくは自分たち)よりも優れていることに気付けたり、受け入れることが出来るという体験は、かなり貴重だと思う。

海外に行ってその土地の人間や文化に触れ、日本という国がどれほどちっぽけなのかを思い知るのもそれと同じ気がする。

秒で謝るが、私は生まれてからただの一度も海外に行ったことがない。パスポートすら持っていない。だからちっぽけとか言ってごめんなさい、日本。ちっぽけなのは私の方です。

海外に行くチャンスが無かったわけではない。

利尻で暮らしていた中学時代、校内の選ばれた3年生が稚内から船でサハリン(樺太)へ渡り、現地のロシア人学生と触れ合う異文化交流行事があった。毎年恒例で、兄2人はどちらも参加していたから私も立候補したのだが、生徒会に所属していないからという理由で行けなかった。学ぼうとする意志は誰よりも強かったのに…先に言っとけ校長め。

謝るついでに怒りの矛先が校長に向かったが、そもそも利尻も島だから、厳密に言えば一歩外に出るとそこはもう「海外」だ。

高校入学以降、幾度となく、

「出身利尻なの?ロシアじゃん!」

と言われてきた。
島出身者からするとだいぶナンセンスなギャグなのだが、あながち的外れでもない。なんせ島国日本の中でも東京よりロシアに近い最果ての島、島オブ島、島オブ・ザ・イヤーだ。

今は飛行機に50分も乗れば札幌に着くが、島にいた当時はそこまでインフラが整っていなかった。利尻から稚内までフェリーで約1時間半、稚内から札幌まで高速バスか列車を使って約5〜6時間の道程となる。

稚内にもデパートはあったが、最新のファッションやゲームは年に一度札幌まで出なければ手に入らなかった。ド田舎の北風小僧からしてみれば、言葉だけがかろうじて通じる異国のようだった。

いつも前置きが長くなるが、とにかくそういう貴重な体験は想像したり画面を通して見たりではなく、実際に相対してみないと分かり得ないことが多い。私の場合、その原体験は野球だった。


小学3年生の時、本格的に少年野球チームに入団した。「本格的に」と言ったのは、2人の兄がいずれも野球をやっていて、小学校に入る前から家の前でキャッチボールをしたり、新聞紙をガムテープで包んだボールで、試合のまねごとはしていたからだ。

父やじじも、

「野球にあらずんばスポーツにあらず」

的な方針だったから、入団はごく自然な流れだった。

チームは全員が同じ学校のクラスメイトと先輩で、監督も普段は教師として勉強を教えていた。

監督は昔ながらのスパルタで、とにかくいつも怒鳴っていた。機嫌の浮き沈みが激しく、一度などグラウンドの入口のフェンスに頭をぶつけ、フェンスに向かって

「いってぇなこのヤロー!」

とキレていた。その日の練習はいつもより厳しかったが、私たちはそれが完璧なやつ当たりだと見抜いていた。虫の居所が悪い日の守備練習では、

「とってこーい!」

と言って外野の一番深い場所にわざとノックを打つ。内野手に対してだ。調子がいいと飛距離110M級のホームランを放つ。もう一度言うが、ノックで、内野手に対してだ。この「とってこいノック」はかつて兄2人も受けていたからもはや恒例だった。

逆に言えばノックの精度が高い訳で、打球の位置、バウンドの回数や高さ、スピードを何度でも同じようにコントロールできた。おかげでチームの守備力は短期間で着実に上がっていった。

私は4年生でセカンドのレギュラーを勝ち取った。と言ってもチームの人数はわずか14人。6年生が7人、4年生は私を含め6人、3年生が1人、5年生にはそもそも男子がいなかった。入団前から父や兄に投げ方、打ち方の基礎を学んでいたのが大きな要因だが、人数ギリギリの状態でレギュラーになることは当然といえば当然だった。

ただ、このチームは強かった。体は小さいが凄まじい威力の速球を投げるエース、長打力のある4番、打球に対する反応が早く、フィールディングが美しいショート、そしてうまくチームを鼓舞しまとめ上げるキャプテンがいた。

島内には私たちを含め4つの少年野球チームがあったが、どことやっても負けなしで、ちょうど今ぐらいの、暑さがじわじわ体を侵食しはじめる時期に、島内代表として稚内で行われる宗谷管内大会に出場することになった。

野球に詳しくない人には馴染みが薄いかもしれないが、少年野球にも相手チームにヤジを飛ばす風習がある。しかも単純なヤジではなく軽快なリズムに乗せて。

「バッタービビってる↗HeyHeyHey〜!」

だの、

「ノーコンピッチャー〇〇(名前)↗!」

だの。

何だお前は。こっちはお前に名前を教えた覚えなどない。

利尻にこんな習慣はなかった。初体験にメンタルをやられながらも、「俺たちは強い!」と湘北バスケ部ばりの根性で順調に勝ち進み、決勝へと駒を進めた。

枝幸との決勝戦は互いに一歩も譲らない展開が続いた。2日で3試合という過酷な日程もあり、エースは明らかに疲労がたまっていたし、初夏の陽気で全員が満身創痍だった。

最終回でも決着がつかず延長に延長を重ねた結果、「促進ルール」が適用された。現在高校野球でも採用されている「タイブレーク方式」と似ているが、無死満塁の状態からゲームを再開し、早期決着を図る特別ルールだ。

最後まで相手チームの攻撃を凌いだエースの力投と、頼れる4番バッターの決勝タイムリーのおかげで、私たちは優勝した。チーム初の全道大会出場を果たしたのだ。

試合が長引いたせいで優勝の余韻に浸ることもなく、ユニフォーム姿のままギリギリ利尻行きの最終フェリーに飛び乗った。選手も監督も親たちもみんなクタクタだったが、突然誰かが何かを叫んだので、慌てて客室から外に出てみた。

嘘みたいだが、フェリーのすぐ横を並走するようにして、数匹のイルカが飛び跳ねていた。野生のイルカを見るのは生まれて初めてだったし、そもそもこの辺りの海にイルカが生息すること自体知らなかった。

「俺たちの優勝を祝ってくれてるんだな」

と誰かが言った。

だがそれより私が感動したのは、フェリーが利尻鴛泊港に入港したときだ。

フェリーは稚内を出て利尻に着くと、今度は利尻からの乗客を乗せて稚内へ引き返す。鴛泊港には稚内行きのフェリーを待つ島民や観光客が、岸に数百人の列を作っていた。

着岸直前、再びチームメイト全員で外に出た。誰かが促し、キャプテンが高々と優勝トロフィーを掲げると、岸から聞いたことがないくらい大きな拍手が起こった。この光景を目にしてようやく、田舎の少年たちがすごいことをやってのけたのだと実感した。

全道大会出場を決めた私たちは当然のように浮かれていた。なんせ舞台は旭川のスタルヒン球場だ。日本プロ野球史上初の300勝を成し遂げた偉大な投手の名を冠する、由緒正しい球場で試合が出来る。

いや、浮かれていたというより完全に調子に乗っていた。管内大会で数々の接戦をものにしてきた私たちは、

「あれ、全道も意外にいいとこまで行けんじゃね?」

くらいに思っていた。今当時の自分たちに言いたい。イルカと、岸にいた数百人に謝れ、と。

全道大会は北海道の各管内から16チームが集まるトーナメント戦だった。

決戦の地、旭川に降り立った私たちは、利尻や稚内とは暑さの種類が違うことに驚いた。海辺の風は冷たくて、暑い夏には丁度いいが、内陸は風が吹くと余計に暑い。緊張も相まって体感温度は40度を優に超えていたと思う。

開会式の後に全員で撮った記念写真が、今でも実家の仏間に飾られている。いつ見てもこれから試合に臨もうという戦士たちの表情とは思えない。画像が荒くて見えにくいが、全員、

画像1

「なんでもいいから、早くしてくれ」

という顔をしている。球場の雰囲気を味わう余裕もなく、私たちは一回戦に臨むことになった。

相手チームは、道南の「上磯茂辺地キングサーモンズ」。鮭の王様。名前の迫力が凄すぎる。こちらなど「鬼脇野球スポーツ少年団」だ。なんのひねりもない。かろうじて地名の「鬼脇」だけが強烈な印象を与えている。

さて、試合の内容を詳しく解説したい所なのだけれど、実はほとんど覚えてない。記憶にあるのは、

こちらのエースが途中で降板し、キャプテンが投げ、その後エースが再びマウンドに上がったこと。

相手の打球はすべて内野を越えていき、セカンドには一度も飛んで来なかったこと。

四球で出塁し、汗を拭っている隙に牽制球でアウトになったこと。

「暑いのはお前らだけじゃないんだぞ!」という監督の怒号が10回は聞こえてきたこと。

そして、スコアボードに灯される相手チームの得点だけが瞬く間に増えていったこと。

24−0

コールド負けだった。

暑さのせいか、悔しかったのかさえよく覚えていない。分かったのは、監督の言う通り「暑いのは自分たちだけではなかった」こと、そして相手チームがとても強かったことだった。

こうして1997年の夏、私たちは約一ヶ月間で歴史的な快挙と歴史的な惨敗を経験した。

幸いだったのは、私を含めこれに懲りて野球が嫌いになったり、練習を怠けたりする選手が一人もいなかったことだ。

私たちは決して弱くはなかった。だけどそのはるか上を行く同世代の子どもたちがいることを知った。彼らの背中を追って、さらなる高みを目指すためのモチベーションが生まれた。私たち全員が、もっと野球を好きになった。

この時キャプテンだった先輩が、今鬼脇で子どもたちに野球を教えている。きっと子どもたちは互いを敬い、立派な向上心を持って日々成長しているに違いない。かつて栄光と挫折を味わった、とことん野球が好きな指導者のもとで学んでいるのだから。

仕事柄週末休みがなく、もう何年もまともに野球をしていない。でもいつかあの時のメンバーで野球がしたい。難しいとは思いつつも、出来ることなら、もう一度あのスタルヒンで。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?