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あたたかい冬。

向田邦子の『父の詫び状』に「子供たちの夜」という話がある。愛について、自身の記憶を辿りながら考えていくのだけれど、本書の中でも特に懐かしくあったかい話で、お気に入りの文章である。

私は文芸評論家ではなく文学研究者でもなく、平凡以下の読者であり書店員に過ぎないから、「懐かしくあったかい」ぐらいの感想しか述べられない。せめて、「懐かしくあったかい」とはどういうことだか考えてみることにする。

利尻空港にはボーディング・ブリッジなどないから、厳寒の地上を全速力で駆け抜けて到着口を抜けなければならない。ようやく気圧の変化による痛みが治まった耳は、寒さのせいで凍りそうになる。

到着ロビーにはいつも、キャップの上にこんもり雪を乗せた父が立っている。空港の目の前に横付けされた軽トラの荷台にキャリーケースを投げ込み、急いで助手席に乗る。エンジンをかけたままで暖房が効いた車内は天国のようだ。

「飛行機混んでたか?」
「いや全然、10人ぐらい」

発車と同時に交わされる最初の会話はこれで始まり、大抵これで終わる。

空港から実家までは30分弱の道のりである。発車10秒で会話は尽き、やかましすぎる軽トラのエンジン音をBGMにして、残りの時間、私はひたすら助手席の窓から海を眺める。

冬の日本海は、夏の目の覚めるような青とは違って、銀色に輝いて見える。聞こえはいいかも知れないけれど、実際は吹雪を伴って荒れ狂う日がほとんどである。大きくうねる波がこれまでの鬱憤を晴らすかのように盛大に海岸へ打ちつける。あそこに飲み込まれたらひとたまりもないだろうな。ボーッとしながらいつもそんなことを考える。

父は、見ているだけで歯が痛くなってくるようなあんま〜い缶コーヒーを飲みながらセブンスターを喫っている。

昔はなんとなく気まずかった。けれど最近では、タバコのニオイが染み付いた軽トラの、この30分の沈黙にもだいぶ慣れてきた。父だってはなから気にはしていないようだ。つまりこれは険悪な沈黙ではない。本当に険悪なら、そもそも空港まで迎えに来ることもない。

実家に到着すると、エンジン音で察した母方の祖母が玄関で出迎える。

「志昇や、大儀だったべ」
「50分も乗れば着くんだで?なんも疲れねぇで」

そんなやり取りをしながら冷え切った仏間に向かい、鈴を鳴らして祖父に手を合わせ、帰省の報告をする。居間に行くと、祖母が冷蔵庫から缶コーヒーを1本取り、ソファに座ってセブンスターを喫っている父に差し出す。さっき軽トラの中で飲んでいたのと同じあんま〜いコーヒーだ。

「ほれ、飲め」
「いらねぇじゃ。家さ帰ってまんま支度しねぇばなんねえんだ」
「あれ、もう帰るってか?」
「ばばや、おらも忙しいんだで」

そう言い放ち、座ったばかりのソファから立ち上がる。再びブロロロロというやかましいエンジン音が聞こえ、やがて遠ざかって行く。忙しいのにわざわざ空港まで迎えに行ってやった、という風にも聞こえる。いつものことである。人のために何かをするのに、ひと言文句を言わないと気が済まないたちなのだ。その物言いにも、もう慣れた。

ここ数年まったく変わらない帰省ルーティン冬Ver.。父はいつも帰って行く。5キロほど離れた自分の家に。

両親の離婚を本人たちから告げられたのは、高校1年の12月だった。

クラスの友だちと体育館でバスケをするのが昼休みの日課で、その日も弁当を食べ終えていつものように席を立った。直後にケータイが鳴った。電話の向こうの母は、明らかに泣いていた。

「志昇?」
「なによ、いま学校だから」
「母さんたち、離婚することにしたから」
「…はっ?いやいや、ちょっと待てって」
「もう離婚届出しちゃった」
「はぁ!?」

「おい、貸せ!」

後ろの方で父の声が聞こえ、電話の主が変わる。

「志昇」
「なに?」
「がんばれよ」
「うん」
「したらな」

通話はそれで終わった。素直に「うん」と言ってしまったのは、他の言葉が出てこないほど狼狽していたからだ。とりあえず体育館には向かった。けれどドリブルの音も、キュッキュという甲高い上履きの音も、ボールを呼ぶ友だちの声も、まったく聞こえない。聞こえてくるのは自らの心臓の音だけだった。青天の霹靂という喩えを音にした場合、ゴロゴロピッシャーン!ではなくドックンドックンなのだと知った。

札幌市内の高校に進学してからは、隣の北広島市で次兄と暮らしていた。京都の大学に通っている長兄も、自動車免許を取るために居候している。両親の離婚は、久々に兄弟3人が揃ったタイミングで飛び込んできた突然のニュースだった。

次の日の夜、父が島から1人でやってきた。私たち3人に、離婚に至った経緯を説明するためである。実際には、まだ届け出をしていないらしい。母は取り乱した挙句に嘘を言ってしまったのだろう。

ひと通り話を聞いた後、すぐそばに敷かれた布団に潜り込んだ。部屋の中が寒かったわけではないけれど、布団の中で体が小刻みに震えていた。

「あいつ、泣いてるぞ」
「まぁ、なんだかんだ楽しかったもんなぁ」
「大丈夫だ、なんとかすっから俺たちにまかせとけ」

布団の外から交互にかけられる兄たちの声に混じって、

「ふん、泣きてぇのはこっちの方だじゃ」

とふてくされる父の声が聞こえてきた。

その年の大晦日はお通夜かと思うような雰囲気だった。

兄弟3人が島にいた頃は、父の友人の店から取った寿司を食べながら家族全員で紅白を観た。その場で祖父から少し早いお年玉をもらうのだけれど、いちばん下の私は兄たちに比べポチ袋の中身が少ない。早く大きくなりたいといつも思っていた。

どんな家族にも公平に流れていると信じていた和やかな時間。けれどその夜実家の居間にいたのは、私たち3人と祖父母だけだった。母は夕方からどこかに出かけたまま帰ってこない。父は2階で1人、格闘技番組を見ている。ここは母の実家なのに、母がおらず父がいる。なんだかシュールな状況だった。

晩飯を食べ終わったあと、普段は無口な祖父が私たちを目の前に座らせた。今後どのように生きていくべきかをこんこんと説いていたらしいのだけれど、正直ほとんど覚えていない。記憶にあるのは、離婚の原因が父にあるということを力説していた点だけである。

この10数年後に祖父が他界したあと、テレビ台にしまったままになっている当時の手帳を読んだ。

最悪の年の瀬でした
2003年の祖父の手帳より

元旦の欄にたったひと言、とりわけ大きな字で書かれていた。その言葉どおり、1年使ってきた手帳の、最悪の締めくくりである。

結局、年が明けて父と母は離婚した。母は島を離れ、北広島にアパートを借りて私と2人で暮らし始めた。父の方も、そのまま母の実家に住み続けられる訳はなく、自分の両親が暮らす家に帰っていった。小学2年のとき家族7人のために新築された2階建ての実家は、祖父母2人きりになった。

祖父が突然この世を去った日の朝、祖母からの電話で訃報を受け取った母の絶叫で目が覚めた。電話口で泣き、取り乱す母はこれが2回目である。あの時と違ったのは、母が札幌にいることと、祖父が死んだことが嘘ではなく事実だったことだ。

実家に到着すると、いつも玄関で大仰に出迎える祖母が居間にちょこんと座っていた。代わりに家の中を忙しく動き回っていたのは、どういう訳か父だった。葬儀屋への連絡、香典や供物の管理に、弔問客用の食事や座布団の用意など、一切の差配を父はやっていた。

続々と駆けつける親族は一様に不審な目で父を見た。離婚以来寄り付かなかった元妻の実家で、元夫が我が物顔で葬儀を取り仕切っている。何か企んでいるのかと訝しむ人もいただろう。

あとで父から聞いた話である。

母が訃報を受け取り絶叫したのと同じころ、祖父は父の家の枕元に立ったらしい。それから膝を折り手をついて、

「これから葬儀と家のこと、よろしく頼みます」

と伝えたそうだ。

祖父は死に際して父を赦したのか。そんな訳ない気がしたけれど、それ以上父に聞くこともしなかった。

嘘か真か分からないその霊言に、父は従った。礼服を着て葬儀に参列することもなく、終わったあとの会食にも参加せず、取り仕切るだけ取り仕切ったあと、黙って自分の家に帰っていった。エンジン音に気づいて玄関まで出たとき、すでに軽トラは遠ざかっていた。吹雪の闇夜を照らすハイビームが、なんだかすごく悲しくて、どこか潔かった。

両親が離婚した当時、思春期でもあった心の多くを占めていたのは、寂しさよりも恥ずかしさだった。故郷や学校の友だちに知られたら、どうせ面白がられるか、憐憫の目で見られるのだろう。そんな妄想と恐怖を常に抱いていた。実際に、離婚の原因や一緒に暮らす母の様子を詮索してくる人たちもいた。

あの夜布団にくるまって泣いたのは、いちばんはそれが怖かったからだ。もちろん自分から両親のことは話さなかったし、札幌で母と2人暮らしの理由を尋ねられても、うまく話をはぐらかすようにしてきた。

「恥ずかしいなんて、思う必要ないかも知れない」

そう考えるようになってきたのは、多分年齢を重ねてきたからだけではない。帰省するたびに、祖父が死んだ後の父と祖母を見てきたからだ。

ドカ雪が降った翌朝、小型の除雪機を軽トラの荷台に積み、1人きりの祖母の家に来る父。居間のソファに腰かけてあんま〜い缶コーヒーとセブンスターで一服し、祖母とひと通りの口喧嘩をしたあとで、

「こったらことしてる暇ねえんだ」

と捨て台詞を吐いて帰る、おそらく暇であろう父。バスで買い物に出かけるたび、父が飲む缶コーヒーを買って来ては冷蔵庫にストックしておくようになった祖母。近所の人から魚を分けてもらうと、

アレ・・が来たときに持たせてやるか」

と必ず父の分をよけておく祖母。

そんな2人を、親族含め周りの人たちは挙って可笑しがった。けれど私は、世間体というものをまるで気に留めない父と祖母が、この世の誰よりも素敵で格好良いと思った。

祖父が死んだ翌年、次兄が奥さんを連れて島に帰り、漁師になった。そして離婚から18年経った昨年の初夏には、とうとう母が札幌を引き上げ実家に戻った。

祖父の7回忌である2022年1月。感染症の影響で親族は集まらず、札幌から参加したのは私だけだった。お坊さんも呼べない淋しい法事だけれど、せめてご馳走をということで夕飯に寿司を取った。

居間の食卓には父の姿もあった。主役である祖父もその日だけは狭苦しい仏壇を飛び出し、小さな写真立てに収まって参加した。

長兄こそいなかったものの、家族で寿司を食べたのはいつぶりだろうか。紅白はとっくに終わった。お年玉を貰える歳でもない。けれど18年前の大晦日に味わえなかった、あの和やかさが戻った気がした。

義姉の手作りザッハトルテ

祖父の命日の翌日は私の誕生日である。酔っ払った次兄が「ハッピーバースデー」を歌い、祖母がそれに合わせて手拍子した。父と母があきれて笑う。34歳にもなってバースデーソングを歌われるのはとてつもなく恥ずかしい。けれど思春期に経験したあの恥ずかしさとは違う、くすぐったい感情が体を包み込んだ。

喜ばしいことが続く様子を一般的に「盆と正月がいっぺんに来たようだ」と言う。私にとっては、命日と誕生日が一緒に来る冬のこの時期が、1年でいちばんめでたくて、何より、懐かしくてあったかい。「懐かしい」や「あったかい」は、家族の愛に包まれた遠い日の記憶のことを言うのだろう。

漁師たちの帰りを待つ家族と出面さんたち

島では6月からウニ漁が始まる。今年67歳になる父はまだまだ現役である。漁が終わって陸に上がると、待ち構えていた家族や出面さんたちがウニを割り、中身を取り出していく。この出面さんというのは、大抵が現役を退いた近所のジジババたちである。すでに両親ともに他界した父の出面には、数年前から母方の祖母が通い始めた。去年からは母もそこにいる。

世間はまた、このことをおもしろ可笑しく取り上げているだろうけれど、私はその場所に行くことを楽しみに、今年も帰省する。世間の声など、軽トラのエンジン音でかき消すように、聞こえないフリをする。

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