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フルトラッキング・プリンセサイザ感想



1.惹かれちゃったのよ

惹かれる小説、ってなんだろうか。展開の面白さ、キャラクターの魅力、訴えかけられているメッセージ、抒情、描写、発想が抜きん出ていること……などなどを挙げればキリがないけど、今回読んだ『フルトラッキング・プリンセサイザ』(池谷和浩/書肆侃侃房 第五回ことばと新人賞受賞作)はどれもうまく当てはまる言葉が見つからない。なのに、惹かれてしまう。

実は僕、この作品は受賞後に「文芸ムック ことばと」(vol.7)で初読・再読しており、単行本化では三回目を読むことになる。これは自分でもちょっとびっくりしていて、こんな短期間で同じ小説を三回も読むなんてあまり無い経験だな……と思い返していた。(断っておくといわゆる「読みづらい」小説では無い) この小説のどこに惹かれたのか、そのことを改めて考えると、次第にこの作品の凄みというものが浮かび上がってくる。今回はそのところを言語化してみたい。

2.各作品の大雑把すぎるあらすじ

・フルトラッキング・プリンセサイザ
映像製作プロダクションに勤める主人公「うつヰ」(うつい、と読む)の毎日の生活と、もうひとつの生活である「プリンセサイザ」というVR空間での出来事を描いた作品。以下フルトラPと略す。
・チェンジインボイス
上記のうつヰ、その友人たちの学生時代の交流の様子を描いた掌編
・メンブレン・プロンプタ
フルトラPから一年後のうつヰ、彼女と交流のある人たちの日常を描く。フルトラPの最後のシーンから直接のつながりがある。以下メンブレPと略す。

3.読みづらい?いやいや……

このフルトラPという作品、読み進めるのに労力が要ると思う方もおられると思う(「ことばとvol.7、p249 江國香織氏の言)し、すらっと読める方もおられると思う。僕は最初は戸惑いがあったが、次第に問題なくなった部類で、そういった独特の文体がアイラのウイスキーの風味のように(わかりづらい隠喩)クセになっていったタチだ。
というのも、一人称のような三人称、という人称の枠を意識しすぎると、この鉤括弧のない文章が全て独白めいた内容なのではないかと錯覚しがちになる。
そうでは無く、この文体は三人称限定視点といえるもので、限定したひとりの人物が観測できる、視点範囲内で起こった出来事を三人称で書く、という文体であろう。つまり、うつヰの見聞きする範囲外の事はこの物語から省かれている。
この効果は読み手が視点人物の感覚に引っ張られすぎずに、その人物の経験、体感、行動を共有できるという利点があり、ジョイス書くところの「意識の流れ」という様式をなぞることで以下のような効果がある。

──三人称限定は一人称と一致する。制限の性質がまさしく同じだからだ。つまるとこと、語り手に見えること、わかること、話せること以外にはなにも見えず、わからず、語られもしないのである。その制限が声に集約され、語り手として真正性(ルビ:それらしさ)が出てくる。

(引用:「文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室」アーシュラ・K・ル=グウィン 大久保ゆう訳 フィルムアート社)

この意識の流れで知られるジョイスやヴァージニア・ウルフも、一見読みづらい文章の小説をいくつも書いているわけではあるが、それでも、読み進めていくと不意に何かがピタリと腑に落ちる感覚があることがある。それは視点人物がほんとうにいると感じられることだ。

4.うつヰのパーソナリティ魅力

魅力、と書いていいものか迷ったけど書く(笑)
本文中、うつヰの外見、容姿に関する描写は殆ど無い。せいぜいが服装や身に付けるものくらいの描写があるだけで、最初は性別すら明らかにされていない。ただ、彼女の行動と思考様式があるだけで、しかもそれらは一般に言うところの「少々変わっている」人物像である。あくまでも一般的ね。
それはそうするだけの彼女なりのこだわりと、これまで取捨選択してきた生きづらさの攻略法(?)によるものであり、我々が一般に指向する「こうした方がいい」という暗黙の了解の枠を軽やかに(あるいは無意識に)踏み越えている。というか、そもそもその枠自体が存在しないかのように。

これについては作家の奥山さと氏が深く触れている。

──この小説は「方がいい、というのは何だろう」という疑問を疑問のまま、あるいは疑問符も付けないままに作品の基底にしているからかもしれない。

ブログ「ロビン、草も食べなさい!」より
“正しく何か言えた方が”
https://mitagaki.hatenablog.com/entry/2024/03/13/184715

──私たちはいつでも何か正しく言えた方がよく、そのためにさまざまな仕事が活躍し、求められる。「だが、小説家が担っている仕事とは『方がいい、というのは何だろう』ということを思考し、形にすることだ。」そのような、いかにもなことを、私は思わない。それは、小説を書いたり論じたりする自分を特別に思っていて、小説を書いたり論じたりすることが世界で一番偉いと思っているような人の言うことだ。そのような人は、さまざまな仕事、これは抽象的な「仕事」の意味で言っているが、ともあれ人々が仕事の中でいつも正しさと絡み合って組み合っていることが想像できていない。

(同)

うつヰは自由ではない。フルトラPでは組織に所属し、のちにそこから独立はするが生活と自身の経験のため己に様々な仕事を課すことで生計を立ててゆく(メンブレP)。しかしそのフットワークは前述したようにあくまでも軽い。
対称的なのが、メンブレPの登場人物、鳥居だ。
彼女は一見、組織を離れた自由人かつフリーライダーのように見えて、マッチングアプリを介した関係性に縛られ、友人である富士見とはある種の共依存の関係にある。

うつヰは、行動様式の正しさや、あるいは逸脱性に魅力を感じるキャラクター造型では無いのだ。というか、彼女はその枠外に居る。トリックスターのようでもあり、職場や学校で見かける「ちょっと変わった人」のようでもある。かといって、悩みながらも地に足のついたその行動様式はリアリティのある人間であることを強く意識させる。強固な文体視点の効果とも相まって、作品の何を読んでも、どこを捲っても、我々はうつヰという存在を強く意識するようになるのだ。

5.メンブレン・プロンプタへの移行

ここで時系列的にいちばん最近の作品に移る。メンブレPはフルトラPとは違い、複数視点の視点がある。しかも今度は地の文と会話文により分けられ、一見して普通の小説スタイルを採用しているように思える。しかしこの作品は、複数の三人称限定視点で構成されていると感じた。視点を複数取り入れることによる感情のすれ違いや、登場人物がそれぞれ己が知らない事象が進行していることに対し、懐疑的になる不穏さ……そういったものが表現されているように思う。
扱うサブテーマも生成AIと象徴的だ。画像生成AIはプロンプトと言われる、希望する画像への言及を文字列として入力する事で、様々なバリエーションの画像を生成することができる技術だが、望んだ画像が一発で出てくることはほぼ無い。登場人物たちはそれぞれの想いをプロンプトとして様々なコミュニケーション方法で交換し合うのだが、望んだ結果が出力されることはない。終盤、うつヰ、鳥居、富士見の三人の関係性が退き引きならぬ寸前まで来ても、彼女たちはプロンプトの交換を止めない。しかしその軋みも、各章末尾に提示される生成画像の生プロンプトが次第に詳細を帯びてくるのに合わせて、物語は収束していく。
そして最終節ふたつ。ここだ。ここで物語がドライブする。

6.筆致について

刊行前、ライターの岡田麻沙氏が進行を務めるYouTube番組「ポリタスTV」で、作品全体に流れるフラットさ、距離感について興味深い言及があった。
https://youtu.be/yGgedEKysiw?si=1j-kKj6D76z34wQq

岡田氏はそれを素材が等間隔に置かれるフォトグラメトリ製作の手法との類似に絡めて指摘し、著者の池谷氏は落語の枕と本編に例えた。
この作品は価値観の判断や評価を下さない。そこは主題ですらなく、不要ですらあるからだ。何を取捨選択するかということは小説を構成する上での一つの定石ではあろうけど、ここに収められた三つの作品は情報の取捨選択をあまりしていない。どれも等間隔に、フラットな視点で並べることで読者が主体となって選択をするように仕向けている節もある。
では全体的な構成がのっぺりするのでは無いか、という懸念も生じるが、そこで落語の枕と本編の例えが活きてくる。情報を時間差を置いて出すという遅延のテクニックを用い、情報の質的な盛り上がりではなく、情報の量的な盛り上がりを表現することで、物語の山場、言い換えれば物語がドライブする瞬間を演出しているのだ。

フルトラPではそこがプリンセサイザ内でのイベントであり、メンブレPでは溜めに溜めての最終節ふたつ、ここまでが大袈裟に言うと枕と本編を分ける分水領である、僕はそう感じた。(逆説的に、枕がおもしろい落語家、というのは大抵が上手い落語家であるように思う。蛇足……)
ここが池谷氏のいわば個性であり、作家としての面白さ、力量が十二分に発揮されている部分であると思う。

7.おわりに

とまあ長々と書いてしまいましたが、理屈では以上のような理屈付けができるにもかかわらず、それとは全く埒外の領域で、主人公のうつヰに大しての好感…違うな、共感…とも違うな、とにかく、どうしようもなく惹かれちゃうものがあるんですよ。それは男女の間にある好意とかじゃなくて、恋心的なものでもなくて、ああっ、もう、否定形でしか表現できないのが辛いんですが(笑)、とにかく理屈もなく惹かれてしまうんです。たぶん女性の読者であってもそれは感じるところがあろう感情なわけで、同じ想いを抱く方もあろうとは思います。
そうしたキャラを作り上げた(過去作?でうつヰが主人公の別作品もあるそうですが……)、作者には、なんというか、うつヰに出会わせて貰ってありがとうございますとお伝えしたい(笑)。

そして予言しますが、この作品を読んだ方は、読後しばらく経つと「また、うつヰに会いたいなぁ……」と思うことになるでしょう。ふとした瞬間に、いつか、どこかで。

多分それも、作者が仕掛けた遅延の演出です。

(おわり)

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