見出し画像

読書感想#60 【高山岩男】「西田哲学とは何か」

出典元:西田哲学とは何か 高山岩男  燈影舎 出版日1988/6/15

西田哲学

「西田哲学」、あるいは「京都学派」とはいわれますが、そこに何か体系立ったものがあるわけではありません。むしろ体系的なものがないこと、これが一つの特徴とすらいえます。

先生*にはドイツ哲学に代表的にみられるような「方法」というものはなかった。従って哲学の方法を中心にして出来上る「学派」というものもなかったし、また今でもそういうものはない。世間ではよく"京都学派"というようなことを言うが、それは先生の人格を中心として結びついたもので、所謂学派というようなものとは違っている。勿論、そこには思想的な繋がりや共同性があろうが、そしてそれは先生の哲学思想を中核としていることは明瞭であるが、実は各人相当違った考えをもっているのである。

p.18
*西田幾多郎を指す

だから厳密には、西田哲学とは何か?京都学派とはどのような思想か?と問うのは正しくありません。巷でよく見かけるこの問いに、あまり意味はないのです。西田幾多郎を主役に添えるか、西谷啓治を主役に添えるか、あるいは高山岩男、高坂正顕、下村寅太郎を主役に添えるか、など、誰を主役に添えるかによって、その根幹は大きく異なります。それを承知して頂いた上で、本記事では西田幾多郎を主役に添えた西田哲学を明らかにしたいと思います。

行為的直感

西田哲学の独自概念として、まず押さえておくべきは「行為的直感」です。

行為的直感は行為と直感とを無造作に結合した概念ではなく、直感的行為は単なる行為でも単なる直感でもなく、行うことが見ることであり、見ることが行うことであるような或る特殊な活動を意味しており、先生はこれを真実のものと考え、我々の真実の直感なり行為なりはかかるものであると考える。直感なき純粋の行為とか、行為なき単純な受動的直感とかいうものは実は存しない。

p.36

それというのも、見る・聞くというような直感には、主体の能動的行為が伴っています。必ずしも受動的な現象ではありません。それゆえ、西田哲学においては、直感は「行為的直感」といわれるのです。

直感はすなわち行為的直感である。深く物を見るところから行為が起きる。物となって考え、物となって行うとき、真に考え真に行う。物に徹し物我一如となる境に行為的直感がある。

p.66

直感は行為と不可分一体にあるのです。西田哲学では、この直感と行為の弁証法的世界を、現実の世界と考えます。

その世界は行為的に物を見、環境を作ることによって自覚する世界である。自覚は理論的反省によって得られるものではない。ただ表現の行為において客観の物や環境に自己を見出だす所に成立するのである。ここに行為的直感なる概念の成立する根拠がある。しかし如何に行動的個人とはいえ元来環境を離れて個人があるのではなく、個人の行動は却って環境の要求に生れるのである。この相反する方向の一なる所が即ち現実界である。

p.97

そしてそのことは、行為には客観的根拠を伴うということも意味します。

場所

ここから先は

3,572字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,023件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?