読書感想#21 【高坂正顕】「思想史の方法概念としての世代の概念とその取り扱いについて」
思想とは何か、それを知るためにはまず、歴史を参考にしてみる必要があります。そうすれば思想とは一口にいっても、それはおおよそ唯物論的な立場に立つものか、あるいは観念論的な立場に立つものかという風に、異なる二つの捉え方があるということが分かります。そして私たちは、一方の立場に立つ人は他の立場に立つ人を非学問的だととぼし続けている現状についても知ることになるでしょう。両者は対立するのです。しかし実は思想というのは畢竟、観念論的な立場でみようが唯物論的な立場でみようが、それ事態にさほど重要な意味はありません。両者共に欠陥を抱えていることに変わりはないからです。
もとより思想に対する唯物論的観点と観念論的観点とはそれぞれどのようなものであるかというに、まず唯物論的観点から説明すると、それは現実の生活が我々の頭の中に反映されて現れた影のようなものです。ここでは思想は日常生活の付属品に過ぎず、大事なのは物質的な生産過程の方になります。即ち物質的な生産過程こそが社会を動かしているのであって、思想はただその影に他ならないのです。この立場に立つ人にとっては、観念論的な考え方は机上の論理でしかありません。唯物論者としては、自分たちこそ現実を見ていると考える訳です。
しかし実際のところ、思想は単に物質の反映と言い切ってもよいかというと、必ずしもそうはいえません。私たちがもし、単に暮らしていこう、生きて行こうというだけで満足できるのであれば話は別ですが、私たちは決して単に生きることだけを求めるものではないからです。私たちはよりよく生きることを望みます。私たちが何を食べ、それをどう消化したかという話は所詮単なる生理現象に過ぎません。むしろ何をどういう風に料理し、どういうものを上手いと感じるかというところに、私たちのより良い生き方があるのです。観念論的な要求というのはこのためにあります。もし私たちからかく観念論的な観点を抜いてしまえば、後に残るのは単なる生理現象だけになりましょう。
また現に思想が逆に物質を限定するということもあり得ます。例えば革命がそうです。革命というのは普通、理念の実現のために起こされます。もしこの理念がなければ、それは単なる暴動で終わってしまうことでしょう。それでは意味ある革命にはなりません。革命は問題に対する正しい洞察と意図とを持って、即ちしっかりとした思想の元で行われなければ成功しないのです。思想が革命を指導して初めて革命は成功します。これはまさに思想が物質を限定しているといっていいでしょう。思想は現実に働きかける力を持っているのです。この観念的な観点を見落としては、まだ正しく現実を見れているとはいえません。
しかし観念的な思想とはいっても、ここでは単に個人の頭の中にあるものをいうのではありません。それはある時代、ある社会に於いてそれを指導しているような、一種の指導理念のようなものでなければなりません。思想は元来その時代、その社会の性格を決定するものでなければならないからです。しかして思想というのは単に個人的であることは許されません。それは畢竟、客観的な観念でなければならないのです。即ち客観的に世界に働きかけるものでなければならないのです。
以上より鑑みると、唯物論的か観念論的かというよりも、その両方を常に視野に入れておくことがより大事であるということが分かります。そしてそれを念頭に置いた上で、次にいよいよ私たちは、思想が実際にどのようにして私たちに働きかけるのかというところに話を進めなければなりません。
ただ思想の働きとはいっても、私たちが見逃してはならないのは、思想にも種類があるということです。思想は一つではありません。故にいくつかの働きを同時に考えてみる必要があります。私はそれを念頭に置いた上で三種類に分類します。
一つ目は実用的な知識を持って何かのものに役立てるという形のものです。これはいわば役立つものを真理と考えるような、ともすればやや唯物論寄りのものになります。この場合に於いては、思想は日常的な生活の中から直接に生まれて生に奉仕するものであり、またそれだけに我々の生活の変化に準じて変わっていくものでもあります。いわばここでは思想と生活とがくっついているのです。この働きかけが持つ意味は、我々の生活を支えているとか、我々の実生活に役立つとかいうところにあります。
これに対し二つ目に挙げるのは、本質的な真理を知ることで、それが実生活にも役立つという形のものです。これは例えば2+2=4というようなものが当てはまります。もちろんこの場合に於いては、実生活に役立つから真理であるというような事はありません。むしろ真理があって、それを我々の生活に役立てるのです。これは客観的な観念論に近いものでしょう。ここでは決して役に立つか立たないかで真理か否かが決まるということはありません。その代わり実用的知識のように、生活の変化に応じて中身が変わるということもないのです。
最後に実はこれらを包括するものがあります。それは哲学です。これは実用的知識からさらに考を進めて、むしろ実用的であるがために自明のものと考えられていたその出発点を、その本質に於いて反省するというものになります。そのためには唯物論的であることはもちろん、観念論的であることも必要であり、そして客観的であると同時に主観的でもなければなりません。いわば矛盾的自己同一でなければならないのです。そしてこの矛盾的自己同一というのは、私たちの人生のありかたを根本から変えるような働きをします。即ちこの場合、ただ単に生活に奉仕するのではなく、生活そのもののありかたを転換させ、新たな生活の意義というものを授けるのです。
以上より私が試みたのは、思想そのものの解明、即ち思想の種類と、その働きを明らかにすることです。なお本記事の下敷きである「思想史の方法概念としての世代の概念とその取り扱いについて」に於いては、その題名が示すように、世代というものが重要概念として挙げられています。しかし私自身としては、この世代という概念に、必ずしも取り扱わなければならないという程の必要性を感じなかったため、私の判断で本稿に於いては世代に関する論考を一切無視した形をとっています。
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