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全体と個人 利己と利他

人間社会を見ると、全体と個人の関係は、全体からの縛りから逃れようとする個人と個人に好き勝手はさせまいとする全体とのバランスで成り立っているようだ。この全体と個人の関係は、人類の永遠の課題に思われる。

1 個人間の違いには差がない

全体は、個人の集合であることは言うまでもないが、個人の力と全体の力とは時代と共に変化している。個人は、単独では生存できないで、他の個人と相互に作用しあい、連続したつながりを持っている。個人と個人を比べると相違しているが、全体からみると個人間の違いは微少であり、誰かひとりが欠けても、全体が滅びて亡くなることはなかった。種と個体とはそういう風にできている。そういう点で安心して各個人は欠けることができる。

2 個人は利己的が基本で、利他的行為は稀れ

利己的が本来の姿(自己追求の本能)か利他的がそうかを考えると利己的が人間の本性と言ってよい。仮に自己の生存を考えずに、他人のためにだけ行動するように創られていたら、人間は存在しないだろう。利他的に傾くと個人は存在しなくなり、社会全体が滅びる。一方、人間は基本的に利己的であるが、それを抑えないと社会は機能しなくなる。

利己的な行為に対して、利他的な行為は数少ない。利他的な行為は、他人の命に関わる危険な事態、瀕死の状態、困窮して生存の危機にある場合などに、発動されるので、文字通りに「有り難い」ことであり、善行として特別に称賛される。利他的行為が称賛されることは、全体の維持に有益である。

3 全体から個人に比重が移ってきた

中世の農民は、制度的に土地にしばられて、不自由な時代だった。わが国でも、封建社会までは、個人は自分を抑えた奥ゆかしさが美徳とされた。近代に個人主義の思想が入りこむと、全体のしばりが緩み、本来の人間的な権利の主張が許容され、更に当然のことと考えられるようになったが、そういう時代の流れに夏目漱石は、今後、個性が強い社会では、夫婦間でもぶつかり合い、家庭は崩壊し離婚が増えると予言した。(苦沙弥先生の未来記『吾輩は猫である』) プライベートな部分では、予言は当たったようだ。しかし、パブリックな部分では、個人の欲望をコントロールする仕組みが備わっていたため、各個人が強い個性を持ったとしても、その結果、社会が崩壊することはなかった。

現代は、個人が権利を主張する時代である。全体より個人に比重が置かれた時代である。個人が互いに正しいことを主張する。人間の権利関係の内部対立に対しては、公共の福利という概念が調整の役割をはたしている。個人に比重が置かれ過ぎたために社会が崩壊しないように、いろいろな調整が図られている。道徳(自発的)、宗教(統一的世界観)、法律(強制的)、労働(生産活動)等多くの個人の行為が社会を維持するために役立っている。そこでは、利己的か利他的かを考える必要がなく、利己的であっても利他的であり、利他的であっても利己的であり、違いはどちらを強く意識するかである。個人は相互に無限の連鎖の中にいる。

個人の自由と全体を維持する求心力の両方は、多かれ少なかれ絶えず働いていて、両者の力の引き合いが行われている。全体の方に傾くと人権が抑圧された社会になる。個人に比重があると個人主義の社会になる。現代は、個人の方にあるが、何らかの求心力が働いていて、完全な個人主義社会はありえない。求心力は個人を縛りつけ、自由を制限するものなので、ルソーの言うように「人間は自由であるが、いたるところで鎖に繋がれている」ことになる。

4 個人が目的か、全体が目的か

それでは、個人のために全体があるのだろうか、全体のために個人があるのだろうか。こういう疑問は、平穏なときには無意味だろうが、人類の危機に陥ったときには、深刻な問題だと思う。今でもコロナ禍において、感染対策を継続して、全ての弱者を守るべきか、多少の犠牲はあっても経済活動を再開しすべきかと悩んだばかりである。弱者は、感染のリスクが高まるという犠牲を払い、全体的な経済活動を容認すべきか。社会全体のことを優先して、自分のことは二義的にせざるを得ない状況があった。

多分、全体の存続が目的なのだろう。全体と個人の仕組みは、個人の幸福が保障されながらも、全体が維持されるように作られている。少なくとも、それが可能なように作られている。人間は鎖に繋がれながらも、十分に自由であり、幸福になれる余地が残されている。個人は、自己の幸福追求を基本にしつつ、他人との相互の関わりの中で全体の維持に貢献している。他人の災難に対して、救済することは美徳とされて、それがすなわち全体の維持につながるという、自由と求心力が上手く調和している。社会は人間の創造物とは言え、人智を越えた神の叡智が働いているとしか考えられない。



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