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人生の勝ち組はいない

昔、「年収が千万円を越えると勝ち組だって」とどこから得た話だか分からないことを同僚が言ったことがある。そのとき勝ち組という言葉に何か引っかかるものを感じた。

スポーツや対戦ゲームでは、勝者と敗者の数はどちらが多いのだろう。対戦では、勝ち数と負け数は同じである。多くは勝ち抜き戦なので、最終勝者だけが勝者となり、栄光の勝利を得る。この栄光の1名の陰に多数の敗者がいる。

人間は、スポーツだけでなく、多くの試合と言われるものにこういう仕組みを作り、いわゆる最終勝者が生まれている。

この世の中を同じように競争という側面でとらえると勝者と敗者がいる。何を持って勝者と言えるのかは難しい。そもそも、そういう考えは間違っているのではないか。 

最終勝者が一人である勝ち抜き戦は、実際の社会では少ない。普通は数倍の難関を突破して受かる学校受験や就職試験のように、一定の数の合格者に対して数倍の不合格者がいる。 

昇進のように階層を昇りつめていく組織の仕組みでは、最終的に1名がトップの席に着く。次第に勝者の数は少なくなる勝ち抜きゲームに似ている。勝ち続けた勝者と途中で敗退した敗者を数えれば、敗者の方がはるかに多い。それを人生の敗者と言ってよいのか。

社会の多数を敗者とする思想が皆から受け入れられるとは考えにくい。勝ち抜きゲームは、ある勝敗の基準に従って決まる。基準から外れた人は敗者なのだろうか。基準は、やがて膠着化し、変化に対して柔軟な対応ができない。人間の多様性が忘れられているではないか。
やはり、適材適所という考えが正しい。それぞれの個性にあった生き方がある。百人には百人の人生があり、百通りの生き方がある。収入による勝ち組を定義した彼の言葉に違和感を感じたのは、こういう理由からだったと、今でははっきりそう思う。



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