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和歌の不得手な万葉人

万葉の時代だからといって、誰もが和歌を作るのに秀でていたというわけではなさそうである。現代のわれわれにも、生れ育った環境のせいか、性に合わないためか、皆ができることをうまくできずに不器用に生きるしかないことがあるが、誰もが和歌を作ったと思われる万葉の時代でも和歌の不得手な人はいた。秦朝元のことである。

天平18(746)年正月、白雪がたくさん降って、地に積もること数寸に達した日、宮中では元明太上天皇の御在所で白雪の宴が開かれ、歌を奏せとの詔に応えて、橘諸兄をはじめて諸王臣が和歌を詠じた。そうしたなかで、秦忌寸朝元(ちょうがん)は歌を作ることができなかった。それを左大臣橘諸兄は、歌を作らないなら麝香(じゃこう)でもってあがなえとからかった。朝元は黙止したとある。諸兄は軽い冗談のつもりだったとしても、今ではパワハラである。黙止の言葉に朝元の苦しい気持ちが感じられる。この場にいて目撃した大伴家持により、記憶されて、万葉集に記載され、今に伝わった。

『懐風藻』によると、秦朝元は、釋弁正(秦氏)の子で、弁正は出家後に遣唐使とし入唐し、そこで朝慶と朝元を授かったが、弁正と朝慶は唐でなくなってしまい、朝元のみ日本に帰って、朝廷に仕えた。弁正の入唐は702年、朝元の帰国は718年と考えられるので、朝元は唐で生まれ育った。そのような生い立ちから漢文には長じていたが、和歌は得意ではなかったのだろう。今でいえば、帰国子女のようなもの。733年遣唐使として、唐に渡り、文に優れていたことで玄宗皇帝から賞賜された。
「あの朝元は漢文に長じているとかで、唐で皇帝に会い、褒美までもらったというのに、歌ひとつ作れない。今日は奴にひとつ恥をかかせてやろう」橘諸兄はこんな気持ちから秦朝元へたわむれ、からかったのだろうか。

このパワハラ事件により、秦朝元のように、和歌に不得意な人もいて、窮屈な思いをしなければならないことがあったことが知られる。窮屈に生きなければならない人がいて、さらにそれをからかう人がいて、今も昔も変わらないものだなと、ほっとするような悲しいような気持ちになる。

懐風藻
弁正法師は、俗姓は秦氏。性は滑稽にして、談論に善し。少年にして出家。頗る玄学を洪くす。大宝年中、唐国に遣学す。時に李隆基(注:後の玄宗)龍潜之日に遇う。囲碁に善を以て、屡々賞遇せらる。子に朝慶、朝元あり。法師及び慶、唐に在りて死す。元、本朝に帰りて、仕えて大夫に至る。天平年中、入唐判官に拝せらる。大唐に到りて天子に見ゆ。天子其の文を以ての故に、特に優詔して厚く賞賜す。本朝に還至す。尋で卒す。


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