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万葉の歌「新しき年のはじめ」の三首

年賀状の祝辞につい書きたくなるのが万葉集の最後の短歌「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」である。万葉集最後の歌であるとともに記録に残る大伴家持の最後の短歌である。雪は瑞祥で目出度いものとされるが、初雪を歌った「新しき年のはじめ」で始まる短歌が三首(746年、751年、759年)あり、政情の変化につれて、大伴家持の心情の推移が偲ばれて興味深い。

746年 
新しき年のはじめに豊の年しるしとならし雪のふれるは (巻17-3925)

751年 
新しき年のはじめはいや年に雪ふみ平し常かくにもが (巻19-4229)

759年 
新しき年のはじめの初春の今日ふる雪のいや重け吉事 (巻20-4516) 

746(天平18)年

正月の日、平城京に雪が降った。「白雪多にふりて地に積むこと数寸なり」一寸は3センチほどであるから靴が埋もれるかどうかの雪なのだが、宮廷では雪が降り積もったことで浮かれ気分の貴族たちは、左大臣橘諸兄に率いられて太上天皇(元正)の御在所に出かけていく。名目は御在所の雪をお掃きするということだが、やがて詔により白雪を前にして宴が開かれた。酒がふるまわれ、この雪を詠ぜよとの詔が出される。橘諸兄を筆頭に諸卿が歌を詠ずる中にあるのが、葛井連諸会(ふじいむらじもろあい)の歌である。

 新しき年のはじめに豊の年しるしとならし雪のふれるは (巻17-3925)

大伴家持の歌がこれに続いている。

 大宮の内にも外にも光るまでふれる白雪見れど飽かぬかも (巻17-3926)

当時、大伴一族の長である大伴家持は、左大臣橘諸兄政権下で、宮内少輔として安定した時期にあった。

737年に藤原4兄弟が天然痘で没し、政権の空白を埋めるように、橘諸兄が、738年に右大臣に、739年に左大臣にと政権の中枢にいる。なお、孝謙天皇下で力を持つことになる藤原仲麻呂は、参議として宴に列席している。

751(天平勝宝3)年

大伴家持は、746年6月から越中守に任じられ、越中(今の富山県)にあった。751年正月2日、大雪である。積もること4尺、腰の高さを越える雪である。国守の館で開かれた宴会にみな雪を踏み踏み訪れた。

 新しき年のはじめはいや年に雪ふみ平し常かくにもが (巻19-4229)

今日の大雪を踏みならして大勢の人たちが館にやってきた。この賑やかさがいつものことであってほしいものだ。天平18年の白雪を歌った葛井連諸会の歌が思い出されたのかも知れない。

この年(751年)に大伴家持は、少納言に任じられて帰京する。

一昨年の749年に聖武天皇が譲位して、孝謙天皇が即位した。藤原仲麻呂が大納言となり、橘諸兄は正一位に任じられるが、孝謙天皇の治世下で藤原仲麻呂が次第に台頭してくる。

その後、756年に橘諸兄の辞任、翌757年諸兄の死、同年に起きた皇太子問題で専横的な藤原仲麻呂を除こうとした橘奈良麻呂の変では、大伴の一族が変に与したとして処罰される。大伴家持は、与することがなかったため、処罰を免れるが、その影響があってか、758年に因幡守に任じられて因幡国(今の鳥取県)に赴任した。

759(天平宝字3)年

この年の正月1日、因幡国庁にて、国司郡司たちが集まる宴が開かれた。初雪が大地を覆っている。

 新しき年のはじめの初春の今日ふる雪のいや重け吉事 (巻20-4516)

新年の初春の日に降るこの雪のように良いことが幾重にも幾重にも積もり重なってほしいものだ。大伴氏の後ろ盾となる橘諸兄はいない。次第に大伴一族の勢いは衰えていく。万葉集最後の歌は、大伴家持の最後の願いでもあり、悲痛な叫びにも聞こえる。





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