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「ゴジラ-1.0」から〜恒産なくても恒心あり

先日見た映画「ゴジラ-1.0」で、終戦直後の焼け跡生活という世相が描かれていた。ヒロイン(浜辺美波)が見知らぬ女から託された乳児のために店頭から食料を盗み、たまたま出会った主人公(神木隆之介)に助けられて、居座る形で主人公の家で同居を始めた。赤ん坊持ちの女性が主人公の家に入り込んだのを知った近所の婦人(安藤サクラ)が悪態をつくが、生きていかなければならない時代の殺伐とした人間像をヒロインや近所の婦人がよく演じていた。決して善意が失われていたのではなく、貧しいために善行をする余裕がなく、ひとつの善意から自分の生活が崩れてしまうような恐れを抱いているのが感じられた。

それから月日が経て、社会が落ち着きを取り戻した頃には、人々の表情が明るくなり、率直に善意を表すことができるようになっていて、この変化に興味深いものがあった。

古来から「恒産なくして恒心なし」とも「衣食足りて礼節を知る」とも言われ、一定の財産がなければ、道徳や礼儀は得られないという。恒産(一定の財産)なくして恒心(道徳心)ある者は、昔から聖人とされる人で、普通の人は、恒産がなければ恒心はない。

映画の中で、悪態をついた近所の婦人が、一袋のコメを持ってきて、これで赤ん坊のおかゆを作るようにと言うが、衣食足りない中でのでき得る最小限の善意にほっとするものを感じた。まさに「恒産なくても恒心あり」であった。次いで「赤ん坊のためであんたらが食べるためでないよ」と言うが、恒産ない中ででき得る最小限の恒心の理屈づけなのか、表現の塩梅がよかった。

その後、この婦人は、生活が安定したときには、主人公たちのよき支援者になっていた。


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