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ドブ活 昭和の映画館

昭和の頃の映画館は、今とはずいぶん違ったものだった。小岩で育ったが駅前通りを下った当たりにドブ活といわれた東映系の映画館があった。まだ活動写真という言葉を知る人が多く、その頃はフタがされていたが、映画館前をドブ川が流れているからそう呼ばれていた。当時の映画館は、三本立てが普通で、指定席はなく、全て自由席だった。定員はないので、休日は混んでいて立ち見のこともしばしばあった。それでも大勢の頭越しに銀幕に映りだされている映像を見ていた。ドブ活は、東映映画をもっぱら上映する映画館だった。東映といえば時代劇だった。水戸黄門や新吾十番勝負などを封じていた。大川橋蔵の颯爽とした姿が鮮明に脳裏に記憶されている。

ある日、姉と私を連れて父親がドブ活に連れて行ってくれたが、スクリーンも見えない位に混んでいた。入ってすぐ前に立つ男連れの婦人の靴が私の足の上に乗った。婦人を押したが子どもの力ではうんともすんとも動かない。婦人は映画に気を取られて全く気づくことがない。数分がまんしていても婦人の足は動くことがなかった。私は、とうとう埒があかないと考えたのか大泣きした。びっくりした婦人が私の足を踏んでいることに気づいて「あら、ごめんなさい」と言ったが、私の泣き声はしばらく続いていた。父親が出ようと行って私の手を引いて映画館を出た。歩きながら、姉が何で泣くのよと責めた。

当時は、白黒映画が主流のなか次第にカラー映画が多くなっていった時期で、映画が始まると大きな字幕で総天然色と映し出されると、観客は喜びの声を上げていた。総天然色と表示しなくてもカラーなのだから分かるものなのだが、不思議と総天然色とわざわざアピールしていた。

幕間に菓子売りが首からカゴをぶら下げてアイスクリームやお菓子を売って歩いた。「ええーおせんにキャラメル」と売り歩くのが常套だった。夏場のアイスクリームは美味しかった。

今の映画館のように、指定席総入れ替え制ではなかったので、封切り時間を確かめることなく、暗闇の館内に入るとすでに始まっていることを気にもしないで見ていた。映像がひと回りすると見ていない最初の部分を見てから映画館を出た。当時は映画館ひとつとってもずいぶんとアバウトな世の中だったなと思う。

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