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万葉の歌 ひむがしの 東野炎立所見而

東野炎立所見而反見為者月西渡

軽皇子が宇陀阿騎野に狩りに行ったときに柿本人麻呂が詠んだ反歌のひとつ。

これが、どうして「ひむがしの のにかぎろひの たつみえて」と読むのか、また読むことができるのか不思議だった。「ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」の読みは、学生時代から習い親しんでいる。しかし、この読み方を忘れて、初めてこの原歌に接したとすると、私のような素人は、「ひがしのに かぎろひたちて」のように読んでしまう。どうやって、先人は、「ひむがしの」にたどり着いたのだろう。

賀茂真淵の『万葉考』には、「東」を「ヒムガシノ」と読み、「東を一句とせし例、下におほし」とある。これを確かめてみたい。

探してみると、巻2に「東乃」の歌2つ、巻3に「東」の歌があった。

草壁皇子が亡くなられたときに舎人が悲しみ作った歌
・巻2-184 東乃多芸能御門尓雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無(ひむかしの たぎのみかどに さもらへど きのほもけふも めすこともなし)
・巻2-186  一日者千遍参入之東乃大寸御門乎入不勝鴨(ひとひには ちたびまいりし ひむかしの おおきみかどを いりかてぬかも)
・巻3-310  市之殖木乃木足左右不相久美宇倍恋尓家利(ひむかしの いちのうえきの こだるまで あはずひさしみ うべこひにけり)

「東」を一句とする以上、「ひがし」ではなく「ひむがし」になる。「ひむがしの」と読んだ賀茂真淵に感心してしまう。高校の国語の先生が、賀茂真淵の業績がなかったら、今の万葉学者は、十分に万葉集を読めなかっただろうと言ったことが思い出された。

この人麻呂の歌の読み方は、当時は定まっていなかったのか、『万葉考』では、「あづまののけむりのたてる」と読んだ例を、「何の理りもなくみだり調」と評している。読み方で多くの人が苦労をしていたようだ。

賀茂真淵は、は煙ではなく、火の光や朝日の明るい光にゆれうごく気、陽炎であると考えて、「平城京師者乃春尓之成者」(ならのみやこは かぎろひの はるにしなれば)(巻6-1047)を同様の例としている。春であれば、陽炎であるのは間違いない。

東が「ひむがしの」で、炎が「かぎろひ」なので、「東野炎立所見而」は、「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて」なのだと納得する。

「東」を万葉仮名で「ひむがし」と直接詠じたものが万葉集には見つからない。ひむがしの語源としては、東が日に向かう方角だからというのが通説だが、実際に「ひむがし」とかな書きした原文を知りたい。古事記や風土記を見ると東を当然のように「ひむがし」とふりがなをふっているが、どこかに「ひむがし」の万葉仮名書きがあるかも知れない。

なお、万葉集には「東」の用法が4種類あり、
①方角の東で、読みは「ひむがし」
②あづまの意味で、「鶏が鳴くあづま」、東男(あづまおとこ)、東女(あづまをみな)など
③東人(人名)河邊朝臣東人など
④東風、読みは「こち」
また、大伴家持の短歌(巻18-4093と巻18-4213)中の「安由(あゆ)」は北陸方言で東風の意味なので、一般に東風に置き換えられている。

最後に『万葉集 本文編』(塙書房)では、巻13-3327に「金厩」を「にしのうまや」、「角厩」を「ひむがしのうまや」とあり、岩波文庫版では、西の厩、東の厩とある。金・角の使い方などは、常人には思いも及ばないものだ。現在のわれわれが万葉集を楽しめるのも、すべて万葉集を訓じてくれた先人たちのおかげであると思える。



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