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遣新羅使人に歌われた柿本人麻呂の古歌

万葉の時代は、例えば旅路の時のように、時と所に当たり古歌を自由に使い、旅の心情を陳べることがあった。万葉集を開くと、巻15(遣新羅使人等の歌)の中に柿本人麻呂の歌らしき歌6首に添えて柿本人麻呂の歌に曰くの注記がある。その最初の歌を見てみると、

玉藻刈るを乎等女を過ぎて夏草の野島が崎にいほりす吾は (巻15-3606)
 柿本朝臣人麻呂の歌に曰く、敏馬(みねめ)を過ぎて、又曰く、船近づきぬ

敏馬は、神戸市東部の古名である。ここを遣新羅使の船が通過したときの心情が人麻呂の古歌を用いて陳べられている。

巻15の巻頭にこの巻の歌の特色が次のように書かれている。
「新羅に遣さえし使人等の、別を悲しみて贈り答へたると、海路に情を慟(いた)み思を陳べたると、また所に当りて誦詠(うた)へる古き歌」

さらに、巻15-3602から巻15-3611までの一連の歌は「所に当りて誦詠へる古き歌」として掲載されている。昔から人びとに愛好されて伝わってきたたくさんの歌があった。人びとは、古い歌に即して「所にあたり」、旅の心情を表明した。歌だから高らかに歌い上げて、それが記録されたのだろう。

巻3の柿本朝臣人麻呂羇旅の短八首の中にある歌をみると

玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ (巻3-250)
 一本に云はく、處女を過ぎて夏草の野島が崎にいほりす我は

一本の歌は、巻15(遣新羅使人等の歌)の中にある上記の「玉藻刈る乎等女を過ぎて夏草の野島が崎にいほりす吾は」と全く同じである。

巻3-250の注記の一本は、柿本人麻呂歌集の別本で、巻15-3606の歌は、別本の柿本人麻呂歌集の歌と考えられる。

長い間、柿本人麻呂の歌は、人びとの心を捕らえてきた。播磨の敏馬を過ぎるときに、遣新羅使人は、柿本人麻呂の羇旅の歌を思い出し、それを歌うことで、自分の心境を述べた。万葉の時代は、和歌が自由に使われ、時に作者の名前も忘れられて、古歌として人口に膾炙されてきた。人麻呂のような著名な歌人の歌は、作者を言わなくても知識として共有されていたのだろう。次第に歌われるうちに「所に当りて」適宜言葉が変わったこともあるだろう。歌は生き物のようである。やがて本歌取りのような遊びが生まれる。

当時は、歌への財産的権利意識はなく、著作者人格権もあやしい。口承と書き写しにより、作品を将来に伝える文化段階であり、歌をいくら作っても売買する仕組みがない。出版技術がない以上、出版はなく、著作権は存在し得ない。そういう時代だから、人びとは、名高い歌を自由に「所に当って」詠ってきた。



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