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実家の家財処分

実家の処分が決まり、家財の片づけを始めた。もっと早くやっておけばよかったと悔やまれる位に数が多い。

押し入れから未使用タオルや引き出物の食器花器がたくさん出てきた。いつか使おうとしまっておいたのだろうか。買ったまま読まなかった本もたくさんある。生活のルーティンから外れたこれらのものをどう処分するか頭が痛い。

人間は立って半畳、寝て一畳という。人間が生きていくうえで必要な空間を言ったものなのだろうが、実際の生活となるとこうはいかない。それ以上の面積が必要になる。そもそも、人は接近しては生活できず、ある程度の距離が必要である。物も同じで、普段の生活に必要な量では足りず、緊急時に備えてとか、財産代わりにとかで、余剰な物が生まれる。この生活上のバッファーは、人間が生きていく上で必要なようだ。

この余剰品は、本当に守る役割をしているのか、災害時や緊急時に役立つものなのかとなると疑わしい。漠然とした精神的安堵感をもたらすだけのようだ。

とにかく経済的な支えにはならないことがはっきりした。買取業者に来てもらったが、期待していた、戦災を生きのびた桐のタンスや仏壇、昭和初期に作られた五月の節句人形、引き出物の食器などは、買い取られなかった。無料でも引き取らないと言う。彼らが欲しているのは、貴金属やアクセサリー、時計の類だった。残念なことに実家にはそのようなものはない。辛うじて、動かない時計、古いフィルムカメラ、古い万年筆を持っていった。

リサイクル業者ではなかったことに失望したが、そもそも日本にはリサイクルシステムがないことに気づいただけでも良かったかも知れない。ボロ市やガレージセールというものから想像される古い家具を手直しして再利用するシステムは、現代の産業社会では育成されないのだろうか。

幸い「全部引取ります」という古書買取業者が見つかり、ワゴン車に積み込んで持っていってくれた。ワゴン車には乗り切れなさそうなので、リサイクルできそうなものから持っていって下さいと伝えると安心したように本の振り分けをしていた。聞くところによると、出回っている本より、出版部数の少ない学術書が良いらしい。ミリオンセラーより内容に価値がある希少な本ということか。

車に積み終わると、父親の残した古書の中で九条兼実の『玉葉』3冊が書棚に残っていた。数年前に神田の古書店街で高値で売られていただけに意外だったが、普及本で研究者のニーズがないということなのだろう。手にとって見ると漢文の日記だが、日本人の書いた漢文だから読みやすかった。父の形見として、わが家に持って帰ろう。形見だから父が残してくれたのだろう。きっとそういうことなのだろう。そう思った。


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