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「ケの日」があるからこそ「ハレの日」が輝く

4年ほど前に介護を機に、退職しました。

家事と介護を担っていたので、そこそこは忙しくもありましたが、仕事と両立していた頃を思うと、雲泥の差でした。
母の状態も、介護度が低かったので、自由になる時間が増えました。

母を無事看取って、完全に家事だけになってしまうと、夫と二人だけの生活での家事は造作もなく、もてあます時間も増える一方でした。

退屈な日常をもてあまし、ブツブツとぼやいている自分がいました。

そして、以前この note に投稿したのですが、いろいろ考えた結果、再就職を決心しそれに向かって今年は、活動してきました。

今回無事採用して頂き、先日初出勤を果たしました。

そして、気付いたのですが。

明日は休みであるということの、なんと嬉しいこと。
毎日が日曜日だった日々にすっかり忘れていた、この感覚を思い出したのです。

この喜びは、働くからこそ感じることのできる思いで、それなくしては決して得ることのできない喜びです。

仕事を終えて、更衣室のロッカーを出た時の嬉しさ。
「はぁ~」と心のなかで、背伸びをしながら一息ついて、久しぶりに味わう感覚でした。

思えば、働く日があって休日がこれほど嬉しいのです。
毎日、日曜日の生活では、当然のことながら感じることのできない喜びだとつくづく実感しました。

毎日がお祭りの日で、着飾って、おいしいものを食べて、遊びほうけていたら、いつかは飽きがきて、お祭りも楽しい日ではなくなってしまいます。

それと同じで、特別な日や今日は贅沢をしようと買っていた有名店のケーキを、何かとこじ付けて頻回に購入していると、いつの間にかそうでもなくなっている自分がいました。

「ハレの日」や特別なことを日常化してしまうと、喜びであった感情が湧かなくなってしまいます。
いくつかあったはずの特別な喜びを失くしてしまうことに気づきました。

物を購入することにも言えてると思うんです。

コツコツとお金を貯めて、やっと手に入れた例えば、ブランドのかばんは、この上もなく嬉しいものであるかわりに、お金に不自由なく何時でも買える人にとっては、日常の買いものであって、特別ではないのです。

同じブランドのかばんを、手に入れてもこの上なく嬉しい気持ちになれるのとなれないのと、どっちが幸せなのかと考えてしまいます。

私は、人生に何度嬉しいと感じる気持ちが湧いたかが、自分の幸福度の度合いかなと思うので、当然前者のうほうに価値があると考えています。

それから、少しの我慢や辛抱が、幸福度をよりあげてくれるとも思っています。

毎晩、晩酌に缶ビールを1本飲んでいたのを我慢して特別の日にとっておくと、例えば休日の前の日だけ、晩酌するぞとか自分に決めてみると、その1本の缶ビールが上げてくれる幸福度の割合は、毎日飲んでいる1本より高いはずです。

できるからといって、欲しいものを欲しいだけ手に入れることに少し自分なりの制限を加えると、その辛抱した分、自分の喜びにはねかえってくるなと思うんです。

「ハレの日」と「ケの日」の区別が最近は、だいぶうすれてきたと思います。

「ハレの日」であるお正月に着物を着て、着飾ったり、お祭りの日にだけ食べた鯖寿司や縁日。

子供時代の特日の日の、特別なワクワク感を、あまり感じなくなりました。
(これは、年のせいでもあるんでしょうが)

日本の暮らしが、恵まれているからだし、これはすごく感謝しています。

でも、その分何か自分なりに決まり事を見つけて、制限を加えて、幸福度を上げていく。

たった1本の缶ビールや有名店のケーキを少し我慢する。

日常の些細なことで自分なりの「ハレの日」を作っていくのは、嬉しいと感じる気持ちの度合いを少し押し上げてくれます。

その分、嬉しいと感じる回数も増えれば、結果的にハッピーかなと思う今日この頃でした。


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