話題をふと、そらした。 自分の好きな話題へ、苦手な間から逃れるための話題へ。僕は話を運んだ。 その瞬間、ほんのわずかにぎこちなく、気味の悪い音をたてる自分の心をみつけた。 楽しい方、ラクな方を選んだつもりなのに、 ちょっと楽しくなくて、ちょっとラクでもない、ほんのわずかな歪みを僕の中にみつけた。 無理に何かに向き合う必要もないとおもう。 我慢なんかも必要ないんじゃないかとおもう。 だけど、ただ静寂の中で、自分の答えを問い続ける、沈黙が僕の心身を一つにしていく。そんな
あとでやろうと、あとで言おうと、あとで… それはもう覚えていない。 もし、覚えていても、もうその時と全く同じ物でもない。 だから今が大切だとか、そんなことが言いたいのでもない。 ただただ、つぎつぎと過ぎていく。 ただただ、僕は別の僕へと変わっている。目の前の人も、もう以前と同じ人ではない。 今、ぼくは何かいいこと、ためになることを書きたいと、ふと思いましたが、そんなことあるはずもない。 ただ、いま思いついたこと、いま覚えていることを書くことしかできない。 ただ、わす
ことばはいらない。 何かを言いたくなって、伝えたくなって、言葉にしようとすると、何かが抜け落ちていった。 君は僕を見た。何も言わずに一瞬目を合わせて、僕は視線を正面においた。何かを見たかったからじゃない。それが僕の心の言葉だったから。ただ、一緒の時間を過ごしているという暖かさを、共に感じている証だったから。 ことばにしないと伝わらない。 言葉足らずでは、誤解を招くことがよくある。 その誤解を解こうとして、言葉は多くなった。 言葉を理解しようとすると、言葉はそのチカラを
今いる環境、立場、状況を判断して思考し、行動する。そんなの当たり前だよ、という声が聞こえてきそうです。 しかし、本来は無限なのですから、無限者として考え、うごくこともできるのです。 限られた有限の者でいられるのは、無限だからこそだとおもうのです。 わたしとは何か。 わたしとは、生み出された何かだとすれば、どうじにわたしが生み出した何かだとも言えるとおもうのです。 つまり、有限であるとは、無限であるからこそ存在すると言えるとおもうのです。 わたしが、現実のすべてを生み出
自分をてばなしていくように思う。 いつもいつも自分という我をとりはらっていくようにおもう。 そうして、母のようになり、大地のようになり、地球のようになり、宇宙のようになる。 祈りになり、愛になり、何者でもなくなり、全てになっていく。
かみさまだから、好きなように意味を与えることができる。 宇宙だから、それを受け取ることができる。 創造者だから、それを生み出すことができる。
じぶんとは一体なんでしょう。 どこまでが自分で、どこまでが自分じゃないのでしょう。 すべてのことを、自分と考えることもできますが、今回は何者でもない自分について書いていきます。 家族は自分ではないとします。 他人も自分ではないでしょう。 みにつけている服装も自分そのものではないでしょう。 髪の毛も、自分の体ではありますが、自分ではないでしょう。 そうしてみると、自分の体も自分そのものではないでしょう。 アタマに浮かんでくることがらも、自分そのものではないかもしれません。
趣味や、やりたいことを聞かれたら時、パッとでてこなかった。 あるっちゃある。 きっと沢山ある。 だけど、今はおもいだせない。 その時、その時、目の前のことをやってるだけだから。 よくよく考えてみれば、好きなことも、やってみたいこともでてくる。 だけど、いつもはそんなこと考えていないことにきづいた。 だいたいいつもは、目の前のことに集中しているか、何も考えていないことがわかったのだ。 そう、僕はたいていいつも何も考えていないのだ。 そうしていると、パッと、ポッとおもいついた
だんだんと寒くなっていく。 道ゆく人をみていると、もう、一年が終わろうとしていることに気がついた。 ふと胸をよぎる。 この一年で何か成長できただろうか。 この一年で何か実らせることができただろうか。 そう思うと同時に、なんとも言えない心細いような気分になった。 その時気づいた。 僕には、この成果主義にむしばまれた意識が残っている。成長、成功することに意味があると、価値があると思っている。 それらはもうぼくにとって必要のない意識だ。過去との比較など、もう必要ない。 無価値
ほしいものがある。 われわれには、ほしいものがあります。 それは、新しい洋服かもしれないし、お金かもしれない。パートナーかもしれないし、安心や喜びといったカタチないものかもしれない。 そうして、失うものもあります。 今手に入っている、目の前のことです。 今身近にいる人や、身の回りの物や環境です。 モノごとには、ウラオモテがある。 しかし、現在、二極を統合して生きていくことができる精神性や時代を多くの人が迎えました。 今、身の回りのことや人に満足や喜び、感謝を感じつつも
最近よく会う老人がいる。 そうして思いをめぐらせると、これまで出会った老人たちのことを思い出す。 今ぼくの記憶にあるのは、かれらの哀愁のような雰囲気。 あまりにも抵抗なく、「そうかそうか」と受け入れてしまう姿。 そんなこともあるだろう…とすべてを流してしまう在り方。 もちろん、頑固な面や個人的な特徴も持ち合わせているだろうが、今ぼくがおもいだすのは、そんなひょうひょうとした印象です。 老人から学ぶことは多い。ぼくにとっては。 彼らの言葉は、あまり多くはないことも多いだろ
現実を通して、自分のエネルギーをまとめあげていく。 自分の状態に集中する。 自分の現実を映し出す。
話さなくても、何かしてなくても、醸し出してるものがある。 人でも土地でも、モノでも、なんだか雰囲気を出している。 もちろん、本人にとって、合う合わないもあるだろう。それも波長が合うとか、そういう言葉にも表現されているように思う。僕たちは、毎日、なんとなく周囲のさまざまなことを感じ、受け取りながら生きている。 ところで、人について言えば、自身の出している雰囲気をあかるさまに変えることができると、観察していて思うようになりました。 場所や、モノ、植物なんかは、そんなに雰囲気が
目が覚めるといつもの朝だ。 でも、さきほどまでは別の場所にいた気がする。リビングに行くと、いつもの家族が動きだしていた。 そう、先ほどまでいた世界では、この世界とは違うメンバーが家族なのだ。 寝ている時、僕は別の世界で別の暮らしをしている。それはただの夢である。 だが、いまここにいる世界も僕からすると夢の世界なのである。 そのことにきづいたのは、いつからだろうか。。 おそらく、目が覚めても夢をハッキリと覚えていることができるようになった頃からだとおもう。 この世界からみて
太陽からの光は約8分で地球に到達するという。 光の速さはそのくらいだということらしい。 光より早いものはないという話もあるらしい。 けれど紙に地球と書いて、太陽という文字も書き加えて仕舞えば、両方を見るのに数秒もかからない。 ぼくたちの意識は、光よりもはるかに早い。 へりくつに聞こえるかもしれないけれど、 なんとなく自分の深い部分で、しっくりきている。 ぼくたちは、物理現象の限界や、こうすればこうなる、といったものを無意識に基準にすることで、本当はなんの制約もない自らの
いま自動的に考えていることは、他のひとからすれば不思議な思考回路かもしれない。 これが一番いいとおもったことは、他人からすると一番悪いことかもしれない。 生まれつきかもしれないし、見聞きしたことかもしれないし、学んだことかもしれない、それら全てが脳の回路をカタチづくる。 そうして、個人個人のパターンができあがる。 それらが頑固に固まって強固にもなり得るし、それらを自らぶち壊して新しいパターンをカタチづくることもできる。 以上は、アタマを使った思考のパターンの話であっ